第十二世利義は、宗藩の主齊泰の第四男にして、母はその臣久世豐の女なり。天保四年二月十八日金澤に生まれ、幼名を甚五郎といふ。嘉永二年七月利平疾むに及び、齊泰に請ひて利義を嗣子たらしめ、八月二十六日幕府の許可を得たり。因りて九月江戸に赴き、十月十七日封を襲ぎ、十一月朔日家督の禮を行ひ、十二月十六日從五位下に叙し備後守に任ぜらる。次いで嘉永四年十二月十六日從四位下に陞り、安政二年四月二十日年二十三を以て江戸邸に卒す。諦嶽院と諡し、實性院に歸葬す。利義、富山侯前田利保の女を娶る。子なし。法號を松現院と稱し、明治九年九月七日歿す。 第十三世利行は宗藩齊泰の第五男にして、利義の同母弟なり。天保六年七月二十六日金澤に生まれ、豐之丞と稱す。安政二年四月利義病革り、齊泰に請ひて之を世嗣とし、幕府の許可を得たる後五月二十三日利義の喪を發したりき。時に宗藩侯齊泰は江戸邸に在りて、利行が五月十八日二十一歳を以て金澤に逝去したることを知らざりしなり。然りといへども利行既に大聖寺侯の嗣と定められたるが故に、その襲封の後にあらずして發喪するときは家系を斷絶する虞あり。乃ち利行を恰も生存するものゝ如く裝ひ、七月十二日同族富山侯大藏大輔利聲及び七日市侯丹後守利豁を名代とし、老中久世大和守の邸に於いて、利義の遺領十萬石を襲がしめらるゝの命を得。九月齊泰更に利行が病によりて出府する能はざるが故に之を隱居せしめ、弟桃之助に襲封せしめんことを請ひしに、幕府は利行が未だ一たびも將軍に謁見せざるを以て頗る之を難んぜしも、十月二十九日遂に辭を設けて之を許せり。蓋し大聖寺の藩祖が將軍秀忠の女の所生たるのみならず、利行も亦齊泰の室なる將軍家齊の女の養ふ所たりしに因る。是に於いて十二月十六日利行の遺骸は金澤を發し、十八日大聖寺に着して直に實性院に入り、十九日密葬し、翌三年正月二十二日發喪、二十八日本葬を行ふ。懿香院と諡す。利行未だ娶らずして子なし。