第十四世の藩主を利鬯とす。亦宗藩齊泰の第七男にして、母はその臣奧村安久の女なり。天保十二年六月十二日金澤に生まれ、幼名を桃之助といふ。初め出でゝ藩士前田貞事の義子となり、貞用と稱し、嘉永七年その家を繼ぎしが、安政二年更めて利行の嗣となり、名を利益と稱し、急に江戸に抵り、十月二十九日その封を受く。この年十二月九日家督の禮を行ひ、同月十六日從五位下に叙し、飛騨守に任ぜられ、四年六月二十三日諱を利鬯と改め、同年十二月十六日從四位下に陞る。 利鬯の世は幕府の末造に際し、内外最も多事を極めたる時に當れり。文久三年三月大聖寺藩海防令を布きて曰く、外舶の近海に來る時は則ちその擧動を窺ひ、士民を召集するに雲版二聲を以てし、若し上陸して侵掠を逞しくするときは報ずるに洪鐘二聲を以てせんと。既にして雲版の響微にして普く徹せざるを以て、易ふるに小鐘二聲にして洪鐘一聲を交ふることゝ定めたりき。後數日土民報じて曰く、海岸を去ること二百歩許に巨艦の浮ぶものありと。藩吏乃ち撞鐘を促さんとせしに、民又馳せ到りて艦の既に航し去れるを報じたりき。後詳かに事情を檢するに、攝海より歸航せる加賀藩の軍艦なることを知れり。この年四月、利鬯歩士及び足輕の武技を閲す。從來の例藩侯は簾を垂れて中に座し、之を透視(スミキ)といへり。或人利鬯に説きて曰く、方今洋夷將に釁端を開かんとするの勢あり。この時に當りて、武技を閲するに舊慣を以てすべからず。垂簾を徹するが如きはその事甚だ小にして、而も人心を激發せしむるの利甚だ大ならんと。利鬯則ち之に從ひ、且つ演武せし者に酒を貺れり。 五月藩士十二名を派遣して禁闕の守衞に充つ。所謂親兵是なり。是より先幕府十萬石以上の諸侯伯をして、秩祿萬石毎に身幹偉大にして勇武他に勝れたる士一人を擇びて京師守衞の任に當らしめ、毎伍に長一人を置き、五伍を隊とし、毎隊に長一人と大炮一門・小銃三挺・馬二疋を備へしめたりき。然れども大聖寺藩はその出す所の士一隊の數に滿たざるを以て特に伍長二人を附したるのみ。親兵の洛に入るや、命ありて延臣豐岡氏の隨兵たらしむ。この時延臣皆諸藩の兵を隨へて自ら不慮の難に備へしを以てなり。同月十日大聖寺藩戍卒を千崎・鹽屋兩浦に配置し、一浦に二所、一所に四卒とし、隊長及び斥候士をして屢巡視監督せしむ。これ幕府が京都所司代牧野備前守をして、この日を以て攘夷の期限となし、各藩沿海の警備を嚴にすべしと告げたるを以てなり。千浦・鹽屋の警戒はこの後五閲月にして廢せらる。