この年將軍家茂大坂に往き、後海に航して江戸に還る、時に六月十五日なり。是に於いて大に諸侯を會して攘夷の事を議せんと欲し、閣老に命じて之を召さしめしが、大聖寺藩も亦之に與れり。その書二十四日を以て藩に達す。略に曰く、卿は未だ參覲の時期に達せず。今その出發を促すは勞苦察するに餘ありといふべし。然れども事甚だ急なるを以て直に旅程に就かんことを切望すと。利鬯乃ち命に應ずべきや否やを宗藩に諮りしに、加賀侯も亦利鬯の東下すべきを勸めたりき。七月宗藩の齊泰・慶寧父子將に京師に上らんとすとの流聞あり。利鬯使を遣はして實否を質さしめしに、宗藩は答ふるに書を以てして曰く、齋泰方今の形勢を見、深く皇國の爲に公武の和衷協同せざるを憂へ、世嗣慶寧と共に奔走して事を謀らんと欲したりき。然るにその後時氣の冒す所となりて旅程に就く能はず。故は先づ老臣を京師及び江戸に派せり。而して嚮に齋泰が利鬯の東行を慫慂せしは幕府の嫌疑を避けんが爲にして、今後亦利鬯を煩すの事なしとせず。宜しく衆士を諭し、他を顧慮する所なく速かにその途に上るべしと。時に大聖寺の藩士等、皆利鬯の東行を不可なりとせしを以て、特にこの言ありしなり。然るに八月に至り、朝議一變して長藩の守衞を解きしかば、大聖寺藩の方針また決するに至り、同月二十二日利鬯は藩臣前田主計以下兵員無慮一千を隨へて出發せり。この行初めて弓隊の外に銃隊を加ふ。二十三日利鬯金澤に入りて齊泰に會し、更に明日を以て北進せんとす。時に急使江戸邸より來り、幕府の會議を停めたるを報ず。因りて利鬯は二十七日に至りて藩に還れり。翌九月幕府大聖寺藩に令し、戍兵を武州飛鳥山に出して不虞に備へしむ。因りて將士多く江戸に赴けり。この時藩兵の禁闕を衞るもの皆罷められしを以て、藩は京都に於ける宿舍を撤し、而して飛鳥山の警固は翌年三月十九日に及べり。