元治元年正月十日藩の重臣佐分儀兵衞、不敬の罪に座して閉門を命ぜらる。初め藩の足輕二人禁を犯して銃を野外に携行せしに、士人の漁撈に赴くもの數人包圍して之を捕へ、火索を奪ひて縳し、拳を固めて擲ち、或は白刄を擬して脅し、足輕等の叩頭陳謝するに及び、初めて之を宥せり。後數日にして事藩吏の知る所となる。乃ちその足輕を罰し、士人も亦行爲の穩當ならざりしを以て頭役の爲に譴責する所となる。是に於いて足輕頭は足輕二人の爲に罪を釋されんことを請ひしが、藩吏頑として之を容れざりき。足輕頭曰く、嚮に高祿の士にして藩侯の苑囿に銃丸を放つものありしも之を問はず、今は微賤にして銃を野外に携ふる者を刑す。敢へて問ふ、苑囿と野外と、放つと携ふると、孰れか禁を犯すこと重しとするかと。藩吏の之を聞くもの皆目を欹つ。或は曰く、彼の所謂苑囿に銃丸を放てりといふは佐分儀兵衞の子弟を指すなり。曩に兵を練りし日、儀兵衞配下の部隊を散ぜしめし後、鹽屋浦の豪富西野某の家に憩ひ、酒を命じて醉を沽ひ、歸途水禽の赤山の下に在るを見、二子をして之を撃たしめしも中らず。農夫の田に在るものその害を受けんことを恐れ、愕然として逃避せりと。赤山は上木村に在りて藩侯の苑囿に近く、その禁亦苑囿に同じかりしなり。是を以て儀兵衞は遂に罪を獲たり。 二月二十九日利鬯、加賀侯齊泰に代りて江戸に出發し、重臣前田中務以下之に從へり。是より先幕府は齊泰に命じ、將軍家茂の京師に在るを以て江戸に留守せしめんとせしが、齊泰は東下を欲せざりしを以て、利鬯をして己に代らしめしなり。利鬯の發する前一日、佐分儀兵衞の執政を罷めて老臣の末班に置き、その軍職は尚舊の如くならしめき。