七月幕府大聖寺藩に命じて、東叡山の戍を援けしむ。この地もと富山藩及び高知藩の守備する所なり。是に於いて馬廻組頭安井助太夫・足輕頭池田數右衞門等、部下を率ゐて江戸に往けり。初め幕府は、譜代諸侯の家臣をして江戸の諸口に戍し、入府者の旅符を檢せしめき。時に水戸の老臣某領邑より來りて道を千住に取りたりしに、酒井大學頭の家臣等之を檢し、旅符頗る疑ふべきものありとして拒んで入れざりしかば、市民誤りて賊の江戸に侵入せるものありしなりと傳へ、府下爲に騷然たりき。是を以て幕府は遽かに諸口の戍兵を増すに至りしなり。 七月十九日長藩の士京師を侵し、禁闕を守衞せる薩會諸藩の兵と戰ひしに、この日加賀藩の世子慶寧は急に兵を率ゐて大津に退けり。後二日にして變報大聖寺に達せしも、慶寧の何が故に退京せしかの理由は得て之を詳かにすること能はず。因りて二十二日組外(クミハヅレ)組頭宮永小兵衞・足輕頭吉田甚右衞門をして部下を率ゐて至り、力を慶寧の軍に戮さしめんとせり。二十三日加賀藩の老臣長大隅寺連恭、齊泰の命を奉じて上國に赴かんとし大聖寺に次す。時に家老山崎庄兵衞も亦慶寧に隨ひて海津に駐りしが、その父穩齋は嘗て慶寧の傳たりしものなるを以て自ら請ひて海津に至らんとし、二十九日大聖寺に次し、晦日この地を發したりき。この日加賀藩の老臣前田土佐守直信も亦大聖寺に次し、八月朔日を以て程に上れり。而して穩齋は前日福井に入りしが、黄昏に至りて頗る戒心する所あり。遂に遽然旅舍を發して徹夜輿を旋し、大聖寺の封境に至りしとき直信の來るに遇ひ、相議して共に一たび大聖寺に歸る。是より先、福井藩の庶民相語りて曰く、初め幕府の藩侯松平慶永に命じて長藩征討の總督たらしめんとせし時、侯はこれを辭したりといへども、若し再び強ひらるゝときは到底命を奉ぜざるを得ざるべく、吾人の親族故舊亦徴せられて役に隨ふの止むなきに至るべしと。是を以て人心頗る恟々たりしが、穩齋の福井に入りし日、幕府及び薩會の使者輿を飛ばしてこの地に來りしかば、一藩益騷擾し口耳相屬したりき。穩齋深く事情を究めず、加賀藩の世子慶寧が長藩を援くるものなるを以て、福井藩は之を敵として往來を妨げんとするなりと臆測驚駭したりしなり。大聖寺藩亦之を傳へ聞き、同日足輕頭田中傳十郎・田中兵庫に部卒を附し、封境瀬越及び右村に陣して福井藩に備へしめしが、その虚報なるを知るに及びて撤し、穩齋は二日再び南上せり。三日、先に大聖寺藩より派遣したる援兵罷め歸る。援兵の海津に著せしは七月二十八日にして、海津の隣邑なる柳澤侯の領澤村に駐りしが、慶寧退軍の實情を知り、淹留四日にして歸路に就けるなり。而して前田直信は八月五日大聖寺を發して南上し、慶寧は十一日海津を發して北下せり。十五日慶寧大聖寺に次し、翌日輿を發して十八日金澤に入りしが、獨從行の長たる山崎庄兵衞はこゝに留れり。これより先松平大貳は、慶寧が禁闕守衞の任を盡さずして退京せし責を負ひ海津に於いて自刄したりしが、庄兵衞も亦大聖寺に割腹せりと訛傳せしも、單に閉門の命を受けしに過ぎず、滯宿七日にして歸路に就けり。この變、大聖寺が金澤より京師に出づるの要路に當りしを以て騷擾の餘波を受けしこと尠からざりき。當時藩侯利鬯は江戸に在りしが、遙かに手書を送り將士を激勵して曰く、近年外虜の難日一日より甚だしく、加ふるに京師の騷擾・常野の反亂あり。天下の危急その底止する所を知らざるものゝ如し。顧ふに武備の充實は豫め令する所なりといへども、今の時に當りて一段の奮勵努力を要す。汝將士等平素の職を怠り、事に臨み疑懼して汚名を遺すこと勿れ、これ利鬯の日夜痛心焦慮する所なりと。