利鬯江戸に在ること既に久しく、應に國に就かんとせし時京師及び常野の騷擾あるに際したるを以て、尚その地に留りしが、九月一日幕府は文久二年の新典を廢し、諸侯伯をして參觀交代し、及び妻子を江戸に置かしむるの制を復せり。利鬯乃ち例に照らし明年會同せんことを約して一たび罷め歸らんことを請ひしも、幕府は之を許さずして加賀侯齊泰の出府と相交替せしめんとせり。利鬯因りて齊泰の病容易に治癒すべからず、且つ北地の道路將に降雪の爲に梗塞せんとするを以て敢へて歸國を許されんことを求めしに、幕府已むを得ずして暇を與へたりき。利鬯十月朔日を以て江戸を發し、越後青海驛に至りしに風浪の爲に阻まるゝこと十二日、二十八日金澤に達し、十一月二日大聖寺に入れり。 この年水戸の浪士、筑波山を脱して京都に上らんと欲し、十二月遂に美濃より蠅帽子峠を踰えて越前に入りしが、當時福井侯松平茂昭及び丸岡侯有馬道純は長州征討の軍中に在りき。是を以て丸岡藩は援を大聖寺藩に請ひしに、大聖寺藩之を容れ、九日前田主計に一隊を附し山中村に陣して越前口の大内・風谷に備へ、又別に山崎權丞の隊をして丸岡藩の爲に熊坂に居らしめ、十日前田中務の隊をして橘驛に陣せしめき。この日福井藩も亦援を大聖寺及び加賀藩に求む。因りて山中の隊を越前に赴かしめ、大内・風谷の二口は橋梁を斷ち鹿砦を設けて戍兵を置き、後三日にして橘に在りし一隊も亦越前に入り、熊坂の隊を右村に移せり。初め山崎權丞の熊坂に在るや、將に軍を有馬氏の封境牛谷に進めんと欲して丸岡藩に報ぜしに、牛谷の地狹隘衆を置くべからざるを以て直に丸岡に來るべきを要求し、權丞も亦これに同意したりしが、先鋒の命あるに及び權丞は告げずして陣を移し、爲に大に丸岡藩の難詰する所となれり。この間に浪士等は、大野城に治する土井氏の封境を去りて今庄驛に據り、次いで風雪を侵し西折して二谷驛を經、遂に木芽峠を踰えたりしを以て、福井老侯松平慶永は府中に進み、更に大聖寺軍の來援を促しゝかば、前田主計は鯖江に陣し、前田中務は麻生津に赴けり。然るに永原甚七郎に率ゐられ一橋慶喜の先鋒として京都より來れる加賀勢は、浪士等の西近江路に進まんとするを知り、命を受けて葉原に到り、新保驛に來れる浪士の軍に對せしに、浪士は窘窮自ら支ふる能はず、十一日以來交渉を重ねて遂に降を加賀藩の軍門に請へり。是に至りて松平慶永は、十九日書を大聖寺藩の鯖江の陣に送り、今や敵已に降れるを以て援兵の撤退休養せんことを求め、因りて大聖寺藩の士卒にして越前に在りしもの二十二日を以て皆還りたりき。この時加賀藩の援兵は小松に在りしが、利鬯はその退軍を求め、二十三日大聖寺藩兵の境上に駐れる一隊亦歸邑す。後二十九日福井侯は使者を大聖寺に派して出師を謝し、丸岡侯は翌年二月同じく使者を遣はせり。