三年正月大聖寺藩幕府の命を奉じ隊長一人・歩士十人及び卒數十人を江戸に派し東叡山を守らしむ。二月加賀藩に於いて士人の肩衣を用ふるを廢し、羽織袴を常服と定めしを以て、大聖寺藩も亦是に倣ひ、同月加賀藩士小川權助及び濱名武十を招きて銃炮の技を學び、中村某を聘して打鼓の法を傳へしむ、又從來藩侯の外出するや、路傍士人の邸宅は門を閉ぢ窻を鎖し、商賣は商品の陳列を撤し、夜は則ち點燈するを例とせしが、同月二十六日自今之を廢すべしとの令を下せり。 同年四月十一日、先に幕府再び大聖寺藩に禁闕の守衞を命じたるを以て、利鬯は老臣前田主計等を從へて國を發し、十八日入洛して本滿寺に舘し、詔を受けて南門を衞る。後數日利鬯遙かに令を領内に傳へしめ、明年に至るまで婦人及び小兒の彩衣を著くるを禁じ、又少年輩が他藩の流行に倣ひ月代を狹くし髮を長く束ぬるの風を戒む。但し壯士文武を學ぶの餘暇申樂を嗜みて憂欝を散ずるは、強ひて之を廢せざるも可なりとせり。六月四日幕府再び利鬯に命ずるに、今秋禁闕の警衞を以てす。時に大聖寺藩は南門を衞りしが、七月十六日加賀藩の兵と交代し轉じて朔平門を守る。この月能登所口に來舶せる英船の士官二人及び支那人等陸行して大坂に赴かんとし、十六日大聖寺に次す。因りて外事奉行は之を迎送し、町奉行は彼等をその客舍に犒へり。九月二十六目利鬯宿衞の任滿ちたるを以て入朝せしに、御扇及び素絹を賜ひ、十月六日また日野大納言をして詔を利鬯に傳へしめ、冬季警衞の任に當るものゝ至るを待ちて國に就くべきを命じ給へり。この時に當り土佐藩の老侯山内豐信は、徳川慶喜に上疏して征夷大將軍の職を辭し政權を朝廷に返上せしめんとし、諸藩士の京師に入りて國事に奔走するもの甚だ多く、物情頗る恟々たりき。因りて大聖寺藩は更に守衞の士卒を増して不慮に備へ、十月二十四日慶喜の辭表を奉呈せる後尚朝命によりて守備を繼續せしが、十一月十一日明石藩兵の來るに及び朔平門の警衞を罷めたりき。因りて利鬯は即日奏して國に就かんことを請ひて曰く、曩に臣警衞の期滿ち、既に暇を賜ひたるも尚國に就くを許されず。頃者之を聞く、朝廷將に臣に待つに諮詢の職を以てせんとすと。臣素より短才無智にしてその任に當らざるのみならず、臣の領土は加賀藩の支封に屬するを以て事ごとに之を宗家に謀るを要し、自ら意見を定むること能はざるの憾あり。是を以て臣請ふ、一旦國に歸り朝旨を加賀藩主に傳へん。否らずんば歳を踰ゆといへども、臣はその責に任ずること能はざるなりと。建議之を容れ、翌日狩衣地を賜ひて滯京の久しかりしを勞し給ひき。是に於いて利鬯は直に二條關白及び傳奏の邸に詣り天恩の辱きを謝し、また二條城に赴きて慶喜に謁し、十四日京師を發して途を東近江に取りしに、老臣前田主計以下之に從ひ、その餘の諸將士前後に皆歸れり。二十一日利鬯藩に着し、二十四日金澤に向かひ、二十八日金澤を發して歸邑す。初め利鬯が荐に歸藩を請ひしもの、その表面の理由は滯在久しきに亙りて封國の施政宜しきを得ざるを憂ふるにありしといへども、亦その秩祿甚だ多からず財政從つて豐かならざりしが爲にして、敢へて責任を逃避して無異を希ふが故にあらざりしなり。