明治元年正月十一日朝廷令して、方今邦家危急に際するを以て、兵を率ゐて速かに入京すべきを告げ給へり。然るに利鬯は疾みて勅を奉ずる能はざりしを以て、重臣前田右近をして代りて天機を奉伺せしめ、また野口物集女に兵を率ゐて上洛し、二月輦下巡邏の任に當らしめき。時に大聖寺藩兵にして京に留るもの歩兵二大隊にして、その大隊は六個小隊に分かれ、一小隊は二十五伍より成り、又炮兵一隊ありて、四分隊に分かれ、一分隊は炮二門・炮手十六人より成れり。而してこの編制の外、尚歩兵百八十八人・三司令官、炮兵三十四人・三司令官ありしといへば、その總數九百人に庶幾かりしなり。この年奧羽の役ありしが、亂平ぐの後十月晦日、大聖寺藩は越後に戍すべき四小隊の派遣を命ぜられき。これを大聖寺藩最後の軍役とす。 大聖寺藩が太政官の許可を得て琵琶湖に汽船を浮べたることは、同藩の成せる文化事業として最も見るべきものゝ一なり。藩が之を出願したるは明治元年九月二日にして、京師警衞の爲に兵員・武器を運送し、又はその物産を輸出するの利便を計るを目的としたるが、同月七日を以て許可の指令を得たり。是に於いて長崎に赴きて汽鑵・船具を購入し、之を大津に於いて組立て、二年三月三日進水式を擧ぐるを得たり。之を一番丸と稱す。然るに一番丸の琵琶湖上に往復するに及び、屢破損して豫期の目的を達すること能はざりしかば、同年七月十四日更に二番丸を建造せんことを民部省に出願して、九月二十四日許可を得、十月その竣功を見たり。一番丸・二番丸共に排水量十四噸、十四馬力、速力八海里を有す。大聖寺藩がこの事業に着手したるは、藩士石川嶂の建議に因り、而して廢藩の後その汽船は舊藩士平田檠三の經營に歸せり。