加賀藩の臣屬中、家格の最も高く、封祿の最も大なるものに八家(ハツカ)あり。本多・横山・長・村井・前田兩家及び奧村兩家即ち是にして、食祿一萬千石以上五萬石に及ぶ。前田綱紀の時以後、その職名を年寄と稱し、八人の中四人は從五位下に叙せられ、國守號を稱することを許さる。之を叙爵せらるとも、諸大夫となるともいへり。抑藩臣中の主なるものが叙爵せらるゝことは、前田利家及び利常の時にこれあり。その後一たび中絶したりしが、元祿四年に至り、本多安房政長は安房守となり、前田佐渡孝貞は駿河守となり、次いで八年長九郎左衞門尚連は大隅守となれり。是に於いて諸大夫三人を數へたりしが、幾くもなく政長・孝貞二人は致仕したるを以て、十五年本多主殿政敏を安房守とし、前田備後直堅を近江守とし、之に加ふるに横山左衞門英盛を山城守としたるを以て、長尚連と共に諸大夫四人を算し、爾後恒例となれり。その國守號は、本多氏は安房守を多しとし、周防守又は播磨守を稱したるものあり。横山氏は山城守を多しとし、大和守となれるものあり。長氏は大隅守を多しとし、甲斐守となれるものあり。村井氏にして叙爵したるものは悉く豐後守とし、前田氏には土佐守多く、又近江守あり。他の前田氏は駿河守と美作守多く、對馬守又は伊勢守を稱したるあり。奧村氏は伊豫守最も多く、河内守之に次ぎ、丹後守最も少く、他の奧村氏は僅かに一人の丹波守を出せるを見る。