貞享以後の制によれば、八家の年寄中七人は、人持の士を七隊に分かちて、各一際の人持組頭に任ぜらる。是を以て、世に八家を稱して七手といふ事あり。然りといへども八家は年寄の職に任ぜらるゝものゝ家數にして、七手とは人持の組數なるが故に、全くその意義を異にす。但し人持を七組とするは元祿十四年の改定に係り、それより前は六組とせり。その他、年寄中の二人は、公儀御用の事務を掌りて、幕府の指揮命令を受け、金澤城代二人ありて、城郭の警備及び修造に任じ、小松城代ありて小松城を管し、勝手方御用主附ありて財政の大綱を握り、學校方御用主附三人ありて文武の教育を掌り、藩末に至りては沿海の守備に任ずる海防方も、亦年寄中より選任せられたり。而しで上記の中、小松城代は明和八年以後闕職となる。 班列の八家に次ぐものに人持組あり。人持の名は夙く天正中より見えて、多數の從屬を有するものゝ義なり。藩末に至りては、人持の數七十家を數へ、封祿の大なるものは一萬四千石より、小なるものは千石に及ぶ。人持中より家老と若年寄とを選任し、年寄を輔佐して一藩の政務を分かつ。小松城代・學校方御用主附・勝手方御用主附は、年寄と共に人持よりも選任せらるゝことあり。その他、小松城番・寺社奉行・與力裁許・公事場奉行・御奏者番・御預地奉行・出銀奉行・定火消・御佛殿並別當屋敷請取火消・三箇寺請取火消・聖堂並學校請取火消等、皆人持の士より選任せられ、御算用場奉行・御近習御用・魚津在住・今石動氷見城端支配も亦平士と混じて命ぜられ、後に闕職となりたるものには江戸御留守居・大横目・奧御奏者番等あり。又人持の一種にして寄合人持と稱するものあり。その數藩末に於いて十六家を算し、食祿二千石より四百五十石に至り、常に無役なるものとす。