與力は、之をその所屬に依りて別つときは、本組・明組・諸組附・遠所附・寄親附等あり。寄親附以外のものは、知行を藩より支給せらる。又加領與力といふあり。薄祿の平士にして、その知行の一部を子弟に割き、別に一家を創立せしめんとするに當り、藩より更に若干を補給して、本組與力の班に列せしめたるものをいふ。その初めて加領與力を命じたるは天和二年十二月にして、爾後請ふものある毎に之を許せり。 寄親附與力は、初め藩侯より特に大身の士に所屬せしめられたる士をいへり。故に之を支配するもの即ち寄親の死して、その後繼者の年少なるか若しくはその任に堪へざる時は、寄親を轉じて他家に附屬せしめられたることあり。利常の世元和偃武以後に至り漸く變遷して、年寄又は人持組の士等、或は自家知行の一部を以て與力を祿せんことを請ひ、或は藩侯より之を命ぜられ、或は新知・加増知を賜はる際、その一部分を割きて與力知とすべき條件を附せらるゝことゝなれるが、この與力知によりて知行を受くるものは即ち寄親附與力なり。されども寄親の與力知は、悉く之を現員與力に支給することなく、その半額以上を藩に上納するを常とす。明知(アキチ)といふもの是なり。寄親附與力の知行は、寄親より所附を以て給せられ、藩に上納する明知も、亦寄親自身の知行所中より隨意に撰擇し、所附を以て之を上(アガ)り知となす。かくて藩末に於ける寄親の數は五十九家を算し、與力の數約百九十人にして、その知行草高、小は六十石より大は三百石に及べり。寄親附與力の職務は、自分仕(ツカヒ)又は内仕と稱して、寄親の家に仕へしむるものなきにあらずといへども、大多數は藩の事務を執り、諸役所の留書、城中の勤番等に任ぜらる。但し戰時に當りては即ち寄親の配下に慶するの制とし、平時に在りても、年頭の禮の如きは、陪臣と同じく寄親に對して鳥目を献り、吉凶に際しても亦陪臣と同じく、寄親の爲に周旋盡力す。