又舟手組足輕あり。藩政中期に至るまでは、全く海寇の患を豫想すべからず。隨ひて水軍を設くる必要を見ざりしが如しといへども、そのこれあるは無きに勝ること萬々なり。是を以て前田綱紀の時、寛文十一年新たに船十一艘を造りて、河北潟の排水路たる粟崎に置き、延寶六年舟手足輕を祿し、舟手頭をして之を督せしめき。藩政末期に至りて廢す。 御手木(オテコ)足輕は、單に御手木とも稱す。前田利常の時、庶民中膂力あるものを採り、藩侯外出の際不慮の變に備へしめたるに起る。是より先、藩初に在りては、他の侯伯と同じく相撲之者を扶養せしが、故ありて廢せしを以てなり。前田綱紀の時に至り、足輕中の力量ある者を擇びて之に任じ、平時及び戰時に於ける造營土木の事に與るをその職とせしが、後世主として荷物輸送の宰領たらしむることゝなれり。御手木足輕の俸祿は二十五俵にして、三十人組頭の兼務統率する所とす。