前述改作法施行の後、給人は一統に平均免によりて收納することゝなれりといへども、藩の老臣に在りては、折紙高を村免にて給せられしものあり。小松に在りて利常に奉仕したる士人が、加州知にて三ッ七歩を授けられしといふも亦異例なり。故を以て當初知行高と收納米との割合に、尚厚薄の差なき能はざりしが、老臣といへどもその隱居し若くは逝去せる後は平均免となり、舊收納との差額即ち出目知は、その子弟に新知として分配せられき。横山左衞門忠次の歿後天和元年四千五百石の出目知を分かちて、新たに四千石を嗣子大膳玄位に加へ、五百石を弟權八郎任風に増し、奧村伊豫守時成の歿後元祿五年二千五百石の出目知を、四子織部自邇に新知として與へ、本多安房守政長の隱居の後元祿十四年、八千石の出日知を四子圖書政冬に加増したるが如き是なり。但し前田三左衞門直之の子孫のみは、藩侯の支族たる故を以て常に特例を以て優遇せられ、平士にありては初め特例のものといへども、死去の後皆出目知を沒收せられたり。