知行地の在所は、給人の知行高にして九十九石以下なるときは、全部加賀に於いてし、百石以上百九十九石までは、加州知三分の一・越申知三分の二とし、二百石以上九百九十九石までは、加州知三分の一・能州越中知三分の二とし、千石以上なるときは、四分の一を加州知、四分の三を能州越中知とす。但し、この割合は極めて大體に過ぎずして、知行百石なれば加州知三十石越中知七十石、知行百四十石なれば加州知五十石越中知九十石、知行二百石なれば加州知七十石能州越中知百三十石とするが如く、便宜に從ひて多少の出入あるを妨げざりしなり。能登と越中とは、總括して之を遠所と呼ぶものなるが、その所附を定むるに當りて、知行百四十石以下のものには遠所の所附を一ヶ所とし、知行百五十石のものには、遠所百石の所附を五十石宛二ヶ所に選定し、知行二百石以上なれば遠所を三ヶ所に選定する等の慣例あり。又新たに加増知を得たるものは、その人一代を限り遠所にて支給し、次代の相續者に至りて普通の割合に復す。役料知も亦之を遠所にて支給するを例とせり。 給人の所得は、平均免による定納の外、尚別に口米と夫銀とあり。口米は元來租米の收納事務に關係する藩侯の代官及び藏奉行の手數料として、定納に比例して納入せしめたるより起る。故に給人の知行所より出す口米は、直接給人に納付せられたりしなり。 口米の事は、慶長三年豐臣秀吉の白山々麓に於ける檢地定に口米一石に付き二升と見え、加賀藩にては慶長十年卯月附越中金屋本郷物成の定に、物成百八十六石八斗八升に對する口米九石三斗四升四合とあれば、この時既に一石に對して五升の口米を徴せしを知るべく、次いで元和元年十一月七日の令に、『一、諸代官衆口米、納一石に付而斗子を以四升宛取可被申事。一、藏奉行衆口米、納一石に付斗子を以二升宛取可被申事。』とありて、この時口米は六升となり、翌二年九月十七日の令により更に増して八升とせしなり。但しかくの如く連りに増加したる理由に就いては詳かならず。降りて寛文十年には、斗子升を以て量りたる定納及び口米の合計一石八升が、新京升一石一斗一升二合四勺に當るを以て、口米を一斗一升二合四勺と爲さゞるべからざることを算出せり。然るに新京升五斗を以て一俵に俵裝するときは、定納百石及び口米十一石二斗四升を容るゝ俵數は二百二十二個餘となり、從來の二百十六俵に比して、六個餘の俵裝を餘分に作るを要したりしが故に、米四升をこの費用に宛て、口米は定納一石に對し一斗一升二合に止めたり。爾後藩末に至る口米の制こゝに於いて定まる。又當時の文書に、斗懸(ハカリカケ)俵及び斗切俵の語を用ふるものありて、斗懸俵とは定納五斗以外之に對する口米五升六合を加へて俵裝したるものをいひ、斗切俵とは定納を五斗俵とし、口米も亦別に之を五斗俵に俵裝したるものをいへり。