この口米の變遷に關しては河合録に、『慶長十一年頃よりロ米石に付五升宛之由。慶長九年まで口米之義無之体也。同十五年頃より石に付八升。』と記するは誤謬なるべく、又その名義に就いて同書に、『元和六七年の頃迄は、御家中侍中全斗(ハカリ)不申に付、人々より家來等指遣、數日百姓方に附置催促仕候内、右家來等百姓賄候に付、難澁仕候由に御座候。依之其入用大概爲御圖米、御直口米と名付、御家中え被下、百姓斗申候。』といへるも、亦附會の説なり。 慶長十年分金屋本郷(越中礪波郡)分物成御定之事 五百八十四石毛附高 此物成三ッ二分 合百八十六石八斗八升者斗升定 此口米 九石三斗四升四合右之口米 右之御定之寫如件。 慶長十年卯月日杉本□太夫在判 恩地平右衞門在判 〔舊記假纂〕 ○