牢獄は、藩の初期に在りては、之を城中に置かれたるが如し。寛永五年八月の金澤町中定書に、『御城中に有之籠番の事、如有來町中として可相勤。然ば御分國中の者に於ては、其者の一族並村中として賄可申。若他國者又は賄可仕樣無之者、御公事場より被入置者の義は、公事錢之内を以、賄料可被相渡。又御目安場より被入置者の義は、過怠銀之内を以、賄料可被相渡。右之外に、賄方無之籠舍人有之ば、稻葉左近・堀三郎兵衞切手次第、町中より賄可申事。』といひ、同十四年三月の定書にも、亦同じく之を載せたるにて知るべく、稻葉左近と堀三郎兵衞とは金澤町奉行なるべし。この獄は慶長二十年の金澤町定書に、お坂籠番の語あるを以て、城中尾坂門の内に在りしを知るべく、後には之を公事場の境内に移しゝなり。 公事場に在りても、入牢者の食餌は必ずしも之を公給せざりしこと尾坂牢屋の時に同じ。即ち初め、藩が入牢を命じたる者の食費は、公事場より之を支辨するも、主人より告訴したるものに就いては、奉公契約期間は主人賄とし、その後は公費とすと定め、町方・郡方も之に准ずることゝせしが、萬治二年六月より、入牢者の食費は、その主人たるもの之を負擔するを通則とし、時宜によりて親子兄弟・請人又は公事場より出すことありとし、町方は十人組、百姓はその村にて負擔すべしとせり。次いで寛文三年四月に至り、一季居の奉公人入牢したるときは、奉公契約の期間は主人賄とし、その後は親子兄弟の負擔とし、又は之を公給することあるべし。但し主人より告訴したるによりて入牢せるものは、奉公契約の期間を終るとも、尚主人その食費を支出せざるべからずとし、同十一年三月の定書には、藩より取調を要するが爲に入牢せしめたる者の食費は、藩之を支辨し、主人より告訴せるものといへども、その理由法令に違反せるが爲なるときは、奉公契約期間は主人賄、その後は公事場賄とすと定め、町人百姓も亦之に准ずとせり。かくて一町村内に入牢者を出すときは、その罪状の同情するに足る者は言ふまでもなく、たとひ幾分憎惡すべき者なりとも、尚關係町村は經濟的損害を免る能はざりしを以て、その宥免を當局に請願するものありしことは、寛文七年五月二十日の町會所本町肝煎役所觸留帳に、『籠舍人有之町々、爲御詑言御奉行人に相詰申義、向後御停止之旨被仰出候に付、肝煎中に申渡候。』とあるに徴すべし。