犯罪者に課する刑の種類は、藩初以來の慣例によりて略定まり、間々新たなる刑を採用し、若しくは從來の制度を改善するの必要なきやを疑はるゝ場合にありては、頗る愼重なる體度を取り、列藩中の主要なるものに對して照會し、その宜しきに從はんことを努めたりき。前田治脩が附加刑として入墨を行はんとするや、之に先だちて安永五年二月幕府及び諸藩の例を調査し、又追放代刑は享保七年以來已に加賀藩の實施せし所なるも、天明四年に至りて諸藩の状況を徴したることあるが如き、即ち是なり。 安永五年二月承合、中將(治脩)樣へ差上候紙面寫 一、毃放之刑・入墨之刑 右兩刑之内、入墨者享保五子年二月、毃放者同年四月有徳院(徳川吉宗)樣御代より御仕置初り候旨、町附與力服部仁左衞門より申越。 一、火あぶりの刑 右御三家樣方にては御討ひ被成候。尤火あぶりより重き御刑法は無御座由、御城付衆より被申越候。 一、はりつけ・入墨 右松平薩摩守殿衆承合候處、磔より重き刑法無御座候。入墨と申刑は用ひ不申候由。 一、入墨・毃放 右松平越前守殿衆承合候處、入墨は相用ひ申候。毃放は其定め有之候へども、多分相用ひ不申候旨。 一、はりつけ・入墨 右安藝守樣衆承合候處、磔より重き刑被行候義承不申候。入墨者御用ひ之由。 一、はりつけ・入墨 右細川越中守殿衆承合候處、當時磔より重き刑相用ひ不申候。入墨者尤用ひ申候由。 一、松平陸奧守殿衆承合候處、彼方より可及返書旨申來。其後兩三度申遣候へども、未返書差越不申候。到來次第可申上候。 申二月(安永五年) 〔前田家文書〕