刑の裁量は、專ら判例に據るといへども、判例の二樣以上なる場合に在りては、何れに從ふべきかの法規なかりしを以て、享保十五年その輕きを採ることゝなしたりき。然るに之が結果として、爾後刑の裁量漸く寛大に流れしかば、延享三年六月前藩主前田吉徳の一周忌に際して赦を行ひたる後、公事場より罪状を藩侯に上申する時は、寶永以前の判例を擧ぐべく、寶永以前に判例なきときは近例に據るべしとの命を發し、更に天明五年には、刑の裁量は重きに從ふべしとなし、釜煎・火炙・生釣胴・引張切の如き酷刑も亦之を復舊し、鉛責・石籠の拷問を再興し、鼻切・耳切の刑を行ひ、首錢を徴して贖罪するの法を實施せしめんとせしが、公事場奉行は首錢のみ時宜によりて出願者に許可することあるべしと布告したるに止り、他の刑罰は一も之を行ふに至らず。次いで寛政三年、刑の裁量は宜しく寛延以前の例に據り、止むを得ざる場合の外は、寶暦以後の例を準用すべからずと定めたりき。 刑罰の種類は、藩政の初期に在りては、戰國殺伐の遺風を受け、尚自ら頗る峻嚴なるを免る能はざりき。前田利家が、某年卯月十八日七尾城代前田安勝に與へたる書状に、『將亦先度からめ進申候上戸(ウヘド)百姓、はた物に御あげ候へ由申候處、一段またき者之儀候間可有如何之由承候。たとひほどけにて候共、爲以來之早々如申遣可有御成敗候。惣別彼者一人に不限、舟之儀雖申付候不出之間、在々之者成敗可仕候。』といへるが如き、實に秋霜烈日の感あるにあらずや。之に對して犯罪者たるの嫌疑を得たる者も、亦自己の無事を證せんが爲、頗る果敢の體度を示しゝものあり。前田利長の時、伏見にて刀の笄を失ひたる者あり。人皆岸主計が之を盜みたるにあらざるやを疑ふ。主計乃ち己の潔白を示さんと欲し、金澤に歸り淺野川原に於いて法樂の鐵火を取り了すといへり。民俗此くの如く勇猛なりしが故に、爲政者も亦峻刑を以て之に臨み、能く士民を畏服せしむるの要ありしなり。今當時生命刑として行はれたるものゝ實例を擧ぐ。