牛裂は、元和八年持筒頭澤田五郎左衞門配下の足輕小頭榊原豐藏に對し、泉野に於いて之を行ひしことあり。豐藏、小姓の候補たりし毛利庄兵衞に懸想して艷書を送りしが、その回答を得る能はざりしを恨み、殺害を以て庄兵衞を脅迫したる罪による。 鋸引は、寛永二十年に行はれたる例あり。小松に於ける馬廻の士宮部彌三右衞門の下婢十四歳なるもの、脇刺を以て主人の妻を殺しゝ罪により、能美郡今江の松原に於いて竹鋸を以て引殺し、その死屍を磔刑にすといへるもの即ち是なり。 釜煎(カマイリ)は、元和四年に所見あり。この年金澤山崎町田上屋彌右衞門の妻たね、陀羅尼鍛冶吉兵衞の弟六藏と密通し、夫彌右衞門を殺害す。是を以て二人共に泉野に於いて釜煎の刑に處せられ、後更に磔刑を加ふといへり。この釜は、金澤の惣鑄物師に命じ、新たに工場を構へて鑄造せしめたるものにして、側面に念佛の六字を鑄出し、蓋に首穴及び數多の小孔あり。後永く公事場に藏せらる。寛文六年四月十六日石川郡番匠垣内村百姓の娘ねい、この釜によりて法船寺河原に煮られ、後死屍を磔に懸けらる。ねいは金澤に出でゝ奉公し、轉々して主家六戸を燒き、且つ物を盜めるなり。是等の犯罪は、後に磔刑を以て代へたり。