火炙は、寛永八年四月大原次右衞門の下吏、犀川法船寺門前に放火し、延燒して金澤城に及びしとき、泉野に於いてこの刑に處せられたることあり。同十八年鐵炮組の者、常にその繼子を逆待し、後之を殺害したる時にも亦科したることあり。寛文以降火炙の刑止み、磔刑を以てこれに代へたり。 生釣胴は、寛文五年有夫の女、密夫と姦通し、本夫の江戸より歸りたる際、相携へて逃走潜匿したるものに科せることあり。後世この種の犯罪者は斬刑に處せらる。 引張切は、寛文七年御馬廻組の士今枝牛之助の若黨にして、牛之助を傷つけたるものありし時、牛之助の知行を召放し、犀川川下に於いて若黨をこの刑に處せしことあり。その外足輕小頭にして、配下に高利を以て貸銀せしものゝ、これに行はれしことあり。 胴切は、萬治二年越中高岡の者、弟の遺産を得んと欲し、非分の公事を企てたるを以て、この刑に處せられしことあり。延寶八年城中奧納戸土藏に入りて數次窃盜せし足輕も、亦胴切とせらる。後世生胴と稱するもの之に同じ。 生袈裟は、寛文中その師によりて放逐せられたる僧侶が、寺院中に侵入し、銀子衣類を盜みたるものに科せしことあり。生袈裟の刑名は僧侶にのみ適用せしものなるべし。後世この種の犯罪に對しては、臟物の多少に依り、斬刑又は追放代刑に處することゝせり。 生命刑以外の身體刑には耳切・鼻切あり。耳切と鼻切とは同時に之を科し、又はその何れか一をのみ科することありて、元祿の頃追放の附加刑として行はれたり。所謂疵付追放といふもの是にして、耳切・鼻切を科したる後、尚その地に留るを許したる例は甚だ稀なり。承應三年河北郡上山村肝煎藤兵衞、その第三子十兵衞と共に同村民四郎右衞門を殺害し、市ノ瀬村の源兵衞、朝ヶ谷村の忠兵衞之に加功す。舊例によれば、固より殛刑に當り、藤兵衞の男子四人、十兵衞の男子五人も亦連座すべかりしが、事情の寛假すべきものありし故にや、藤兵衞の手指を斷ち、持高を同名百姓に分與し、十兵衞を鼻切に處し、その持高は舊の如く耕作せしめ、藤兵衞の長子と第四子とは、現場に在りし故を以て所拂追放とし、源兵衞と忠兵衞とは耳鼻切に處して、亦その田地を有せしめたる如きは特例なり。元祿以後疵付追放に當る者は、單に追放に處することゝし、天明五年之を復舊すべく企てしも尚行はるゝに至らざりき。