死刑の種類とその判決例に就きては、略前に之を述べたるが、今更に死刑全般に關して詳説する所あらんとす。 凡そ寛文以前に在りて、物を盜みたる者は、その加害の程度如何に拘らず死刑に處するの例なりしが、罪状の非常に輕微なる場合に在りては、時に減刑せらるゝことも亦無きにあらざりき。例へば、寛文八年藩士大原五郎左衞門の鑓持茂助といふもの、馬糧の大豆及び柴を盜みたること發覺したるを以て、主人の許にて斬刑に處せんことを出願せることあり。公事場奉行即ち之を藩侯に上申せしに、窃盜の死刑に當ることは古來定まれりといへども、此の如きは微罪なるが故に、寧ろ耳鼻切に處したる後追放するを可とすと指令せられたるが如きもの即ち是なり。此等疵付追放となりたる小賊にして、再び封内に入り窃盜を爲したる時は、固より直に死刑に處せられ、封内に入るも罪を犯さゞるときは再び追放し、若し赦に會したるときは特に宥免せらるゝことありき。 又寶永以前に在りては、禁牢三回に及ぶときは、罪の輕重に拘らず死刑に處するを例とせり。然るに正徳三年、先に窃盜犯によりて御領國追放に處せられし者、歸國して窃盜せしを以て三ヶ所御構追放を命ぜしが、幾くもなく復封内に入りて窃盜せり。依りて公事場奉行は、法令に照らして斬せんことを稟請せしが、時恰も將軍徳川家宣の一周忌に會したるを以て、三たび追放し、今後歸國するときは如何なる大赦あるも死刑とすべきことを宣告せり。是に至りて禁牢三回にして尚助命せらるゝことあるの例を開く。しかも寛延元年には、越中戸出村出生の乞丐與三右衞門といふもの、窃盜三回に及びたるを以て斬に處せり。次いで天明六年四月前田治脩は令して、公事場に於いて禁牢に處せらるゝこと三回に及びたる者は、之を死刑に處すること從前の如くなるべしといへども、盜賊改方に於いては禁牢三回なるも尚出獄せしめ、その後更に窃盜を犯せるときは、罪状の輕重によらず、盜賊改方より公事場に護送して死刑に當つることゝせり。