死刑に當する者、その判決前文は刑の執行前既に死したる時は、その死屍を處刑するを例とせり。例へば正徳五年十一月六日斬刑に處すべきもの、當日拂曉牢獄に於いて縊死せしを以て、その死屍の首を打ちたる如き是なり。然るに享保五年五月磔刑に處すべきものゝ縊死せる際、死屍を處刑すべきや否やを藩侯に伺ひしに、然るを要せずとの指令を得、後この例に從ふことゝせり。但し逆罪の者に在りては、鹽藏したる死屍を磔刑に處すること尚行はれたりき。錢屋五兵衞の如きは、重大犯人と認められたるを以て、牢死せる後鹽藏し、次いで磔刑の宣告を與へたるも、實刑を科することなかりしは、葢し享保五年の例に從ひしなり。 死刑は、中期以後公事場奉行のみ之を執行せり。葢し寛政十一年公事場奉行の上申書に、町奉行の裁判したる罪人を、公事場に於いて死刑に處するは貞享二年に始り、爾後流例となれることを載す。然れども延寶二年町會所にて裁判せる町足輕川上三右衞門を、公事場に於いて斬せることあるが故に、前記貞享二年に起るとする説の誤れるを知るべし。たゞその創始年月の如何に拘らず、是によりて始は町奉行といへども死刑を執行したりしが、後公事場に送致することゝなりたる事實は明らかなり。郡奉行・盜賊改方奉行等にありても、恐らくは同一なりしなるべし。 死刑執行の期日は、藩初の頃金澤の寶幢寺に命じて選定せしめしこと、之を同寺に傳來せる文書によりて知るを得べし。 殺害者日柄、來る廿九日不苦旨被仰越候得共、此方指閊之義出來候間、廿六日・廿七日・廿八日之内、重而御考可被仰聞候。年内無餘日故如斯候。以上。 十二月廿四日玉井勘解由 多賀豫一右衞門 寶幢寺 〔刑法拔書〕 玉井勘解由・多賀豫一右衞門の二人は共に公事場奉行にして、勘解由は延寶三年に任命せられ、貞享三年若年寄に轉じ、豫一右衞門は延寶八年に任命せられ、貞享三年に免ぜられたるを以て、この書簡は延寶三年より貞享三年に至る間のものたることを斷ずべし。