後世に在りては、吉事ある場合に死刑を執行せず、時にはその前後稍長期に亙ることあり。元文五年閏七月、櫻町天皇の女御臨月にあたらせられしを以て死刑を廢し、明和三年八月藩侯前田重教夫人の臨月なるを以て、朔日より出産に至るまで之を除きしことあるが如し。藩侯の大法要を執行する當月も、亦朔日より法會の終了に至るまで之を除くことゝし、元祿七年四月前田光高の第五十回忌以後この例を開けり。藩侯又は藩侯の母堂及び夫人の忌辰には、初め祥月・平月共に入牢を停止し、殊に祥月に在りてはその前日より入牢・裁判共に之を廢せしが、天明四年より當日たりとも裁判をのみ廢するに留め、入牢は敢へて關する所なしとせり。但し逝去の後時を經ること久しからざる藩侯等の忌辰には、尚祥月命日に入牢をも停め、平月に死刑・拷問を廢したりき。藩の老臣歿する時は、五七日間死刑を延期す。是の如き日を凡べて除(ヨケビ)日といへり。寛政四年正月、特別の場合を除くの外死刑は之を秋冬の交に於いてし、春夏に行はざることゝせるは、この時恰も藩黌創立の際に屬し、特に漢學の影響を受けたる爲にして、決して永制となりしにはあらざるなり。