死刑に次ぐものに永牢あり。亂心ながら主人に對して容易ならざることを申懸け、遂に公事場に出訴したる者、不屆の所行ありたるを以て奉行より論示せられたるに拘らず、尚その命に背きて落文したる者、亡氣即ち精神喪失の状態にて放火したる者、地位ある人に對して不法を働きたる者等に科せられ、或は死に當る罪より一等を減じて永牢とすることあり。 禁牢は、輕きは二三ヶ月より重きは二三年に及び、その該當の罪状は一々擧ぐべからざるも、多く輕微の犯人に之を科す。禁牢の宣告は、古くは何月何日より何ヶ月としたるが故に、その日數に滿たざる時は假令疾病に罹るとも出獄せしむること能はざりしが、後何月より何ヶ月とし、危急の場合幾分短縮することを得しめたり。但しかく改定したる年月は詳かならず。又長期の禁牢にして、刑の殘餘僅かに二三ヶ月の頃に至り重病に罹りたる者は、正徳四年以降特に年寄の許可を得て出牢せしめ得るの制を開けり。又初は藩侯の裁斷に、二三ヶ月禁牢といふが如く不確實に指示せられたる時は、公事場にて三ヶ月目に出牢せしめ、四五ヶ月禁牢とある時は五ヶ月目に出牢せしむるの例なりしが、正徳二年以降二三ヶ月は二ヶ月、四五ヶ月は四ヶ月と解釋することゝせり。且つ行刑の月數滿ちたる時は、その月中旬に於いて出牢せしむるを例とすといへども、老人又は病者に在りては上旬に於いてしたりしが、藩政末期に至り改めて一般にその月初旬の式日に出牢せしむることゝし、判決確定の時既に未決の留置期間にて刑の月數に滿ちたる者は、當日にても出牢せしむることゝせり。 禁牢者にして羸弱在獄に堪へざる場合に在りては、その子の出願によりて代牢を許すことあり。或はその孝心を賞し、代牢を要せずして親の罪を赦したることも亦無きにあらず。寛政六年越中礪波郡下吉江村茂右衞門といふ者、非行ありて禁牢せられしが、子八兵衞代牢を請ひしを以て許され、茂右衞門は郡奉行に責付せられき。已にして茂右衞門の罪は三ヶ所御構追放代刑に當るとせられ、その年限中八兵衞の在獄すべきを命ぜられしに、茂右衞門は頽齡にして農務に從ふ能はざるが故に、寧ろ自ら實刑に服せんと請ひ、而して八兵衞は父をして辛苦を嘗めしむるに忍びずとして、己獄に繋がるゝを希へり。藩乃ち二人の志を嘉し、茂右衞門の罪を免すと共に八兵衞を出獄せしめき。人以て稀有の例とせり。錢屋事件の後喜太郎の女ちかが、父の禁牢に代らんことを出願したる時も、亦代牢を要せずして喜太郎の出獄を許されたり。