所罰の一種に、犯人を里子とすることあり。里子とは、前田綱紀の時より、僕婢の主家を逃亡したる者、私に關所を越えたる者、無宿にして浮浪する者の如き微罪を膺懲するが爲に、彼等の使役を希望する百姓に交附して耕作を助けしめたるものをいひ、その使役料は十村等に命じ、使役者より徴集して藩に上納せしめたり。又川除奉行等に附して藩の土工に從事せしめしものあり。里子には何れも食料と給銀とを與ふ。後には公事場奉行より定檢地奉行に引渡し、諸役所の使役に供し、その居所なきものは藩の窮民収容所たる非人小屋に置き、又は宿賃を與へて町方借屋に住せしめき。期間は概ね二年より五年に及び、特に精勤なるものは刑期を減ぜらる。前田重凞の寛延中に至り、里子を廢して禁牢に代へ、里子二年に當る者は禁牢四五ヶ月に當つることゝせり。 追放は犯罪者を領外に逐ふものにして、輕重の二樣あり。その領國に入るを許さゞるのみならず、同時に江戸・京・大坂に入るを禁ずるを三ヶ所御構追放といひ、領國にのみ入るを得ざるを御領國追放と稱し、而して元祿六年單に追放といふときは、三ヶ所御構追放の義なりと定めたり。然るに享保七年二月幕府は令して諸藩兇惡の徒をその領内に置くを欲せずして追放に處するときは、他領の治安を害するの憂あるを以て之を禁じ、啻り爭鬪して互に相傷つき、若しくは武士にして罪状により追放するを便とする場合はこの限にあらすとせり。是を以て加賀藩は同年五月追放の刑を廢し、從前の三ヶ所御構に當る者を嚴重可被仰付者といひ、御領國追放に當るを急度可被仰付者と唱へ、實刑は入牢を以て之に當てたりき。次いで享保十五年八月、前者を三ヶ所御構追放代刑と呼び、二ヶ年の禁牢に處することゝし、又之と同時に、斬刑に當るものゝ赦に遭ひて三ヶ所御構追放代刑に減ぜられ、然る後再び罪を犯したる時は、曾て一たび死を以て論ぜられたる者なるが故に、今次の罪状の輕重に關せす之を死刑に行ふことゝ定めたり。かくて領民を國外に追ふこと一旦止みたりといへども後には又江戸に入るべからざるを條件として追放することあるに至り、之を御關所外追放といへり。この場合にありては、江戸に於いて幕府に屆出で置くを要したりき。前記の外、領内を去るを要せざるも、從來の居住地より追放せらるゝものあり。之を所拂追放といひ、百姓町人にして支配奉行より雇傭せられたる時之を拒み、又は藩吏を誹謗したる場合に之を科せり。郡村に在りて追出しと稱するものも亦同一なり。