生命刑に當る者にして財産を提供し罪を贖ふものに首代銀あり。又首代錢とも稱せらる。寛永二十年能登に銀子引負の爲法に觸るゝ者ありしが、その父金錢を納めて助命を得んことを乞へり。是に於いて藩侯は、彼れ素より死に當るといへども、恰も公子の出生に會するを以て、將來を懲らして放還すべしとなし、乃ち犯罪者の鼻を斷ち、銀二貫目を三次に分かちて上納せしめたりしは、その一例なり。正保四年士人の小者、江戸を遁れて郷里に潜匿せしに、かくの如きはその主人をして成敗せしむるを例とせりといへども、犯人が百姓なるを以て首代銀を提供せしめて助命せしことあり。後此等の前例に基づき、養父たる足輕にして罪を犯し、その子の同座せざるべからざる場合には、首代銀を以て償ひ得べしとするの特例を設けたりき。 又過怠銀・過怠錢あり。十村及び山廻役の者にして法に觸れたる時、又は山林の境界に關する爭議を釀しゝ際、問題の解決に至るまでその地に入るべからざることを郡奉行より命ぜられしに拘らず之に背きたるとき、並びに過怠銀を科せられしことあり。又遊女に關する私曲、藏宿の不埒、質屋の不念、贜物を故買せる者、贜物たることを知らざりしも不相應に買取りたる者、藩吏にして博奕を試みたるものに、過怠銀又は過怠錢を科せられしことあり。天明六年能登所口加藤屋丹四郎の非行ありて禁牢を命ぜらるゝや、近親より過怠銀を出して放免せられしことあるは、名は過怠銀なりといへどもその性質は贖罪銀なり。 又科料として米穀を徴するを過怠米と稱す。慶長九年五月の掟に、『自今以後、百姓たる者、他國の金山へ罷越者有之ば、其在所のおとな百姓、並隣家之百姓可成敗村中としては、過怠米として屋別一石宛可出事。』といへるは即ち是なり。 士人に對しては、特にその名譽を尊重する必要上、斷罪の手續を異にするものあり。凡そ士人の罪を犯す者ありたるときは、概ね組頭・親類又は組中に身柄を責付し、公事場奉行等その家に臨みて訊問したる後刑を裁量し、藩侯に上申して決定を侯つを法とす。然れども又その裁判を組頭或は主人たる者に委任せらるゝことありて、彼等は啻に輕微の罪を質しゝのみならず、死刑若しくは追放をすら決定せしことあり。その手續は、主人たるもの罪状を文書に認め、組頭の奧書を經、之を月番年寄に提出し、公事場奉行の協議によりて採否を定められたるなり。但しその罪状の特に憎惡すべきもの、若しくは破廉恥に關するものにありては、士籍を剥奪せられたる後公事場に收容せられ、庶民と同一の裁判を受く。士人の刑罰中、切腹・縳首・在郷・閉門・逼塞等はその特有のものにして、流刑・追放等は士庶に通ずるものなり。