士人にして士人たるの名譽を毀損せざる範圍に於いて國禁を犯し、その罪死に當るときは切腹を命ぜらる。爭鬪にあらずして人を害したるものも、亦切腹を命ぜらるゝことあり。陪臣も之に同じ。 歩並以上の士にして、人を殺し金銀を奪ひたる者、屢私曲を累ねたる者、番所の定書を破棄し城門の鍵を隱匿したる者等は、縳首に處したることあり。縳首とは、捕繩を以て縳したるまゝ斬首するをいふ。歩並以上の者、盜賊を爲し又は私曲を行ひて、その罪死に當る時は、刎首に處せらるゝことあり。その他元治の變に、與力福岡惣助の生胴に處せられたることあるも、稀有の例なり。 流刑は、歩並以上の士にして博奕を爲したるもの、私曲によりて死に當るも刑一等を減ぜられたる者、神職・出家又は農吏にして非行ありたる者等に科することあり。流謫の地は、越中五ヶ山を最も重しとし、能登島又は鹿島郡津向に置けるも亦これあり。その罪状重き者は縮所(シマリシヨ)以外に出づるを許されざるも、輕き者は居村を逍遙するを妨げず。食糧は二人扶持又は一人扶持の外薪代及び鹽代を十村に與へて供給せしむ。小屋の大さ九尺二間とし、鍋・水桶各一、椀一具を與ふ。近親の合力・通信及び罪人の帶刀は、時としては之を許し時として許さず。 覺 一、流刑人金澤より配所へ被遣候節、途中御歩兩人・足輕・小者相添、駕籠にのせ鎖おろし罷越。能登島へ被遣造候者は、所口町奉行迄渡之、小代官並足輕相添、島之内著船之上裁許之十村に相渡申候。五ヶ山へ被遣候者は、駕籠之渡場に而礪波・射水御郡奉行迄相渡恨事。 但、平士以上は、途中駕籠に被乘、御歩兩人・足輕・小者指添申候。與力等以下は馬に爲乘、御歩は添不申、足輕小頭・足輕・小者相添被遣候。病氣に而馬乘得不申候得も、駕籠にのせ被遣候事。 一、刀・脇指は、兩人之御歩請取、途中は小者に爲持罷越、所之奉行迄渡、奉行より流刑人え相渡候事。 但、私曲等至而重き流刑人えは、刀・脇刺は相渡不申候事。 一、居在所之外には不罷越樣申渡候事。 一、九尺に二間之小屋出來相渡候事。 一、流刑人御歩並以上之者には、二人扶持被下候。夫より以下は一人扶持に、薪鹽代一日に銀二分二厘宛被下候事。 一、流刑人親類共より通路之義、雙方共披状に而支配人に相違、見居候上雙方に相屆申筈之事。 明和九年壬辰九月 〔御定書〕