士人も亦追放に處せられしことあり。寛文中の浦野事件にその例多く、延寶八年の令には、士人にして親兄弟の罪に連座し追放となれるものは、三ヶ所御構に及ばずともいへり。享保中追放を廢し、追放代刑として禁牢を用ふるに至りては、士人の之に處せらるゝものなかりき。 士人にしてその體面を維持する能はず、或は職務上重大なる非行ありたる時は、知行被召放の處分を受く。知行被召放は即ち俸祿の全部を剥奪せらるゝものにして、此の場合には家屋敷を沒收せらるれどもその家財に及ばず。知行被召放と改易とは稍異なり。即ち前者は藩侯より與へられたる判物・印物はその親戚に保管せしめらるゝも、後者は判物・印物の上納を命ぜらる。又廩米を以て俸祿を給せらるゝものゝ除籍せらるゝ場合に在りては、之を扶持被召放と稱す。算用場等の小吏にして、用聞商人に瞞着せられ、藩の買上物品代金の下附方法を誤り、又は足輕等にして番所に在るとき怠慢の擧動ありたるもの等、この處分を受く。又士人にして、知行を召放さるゝに至らず、僅かにその一部を減殺せらるゝものは、減知の名目あり。その失錯役儀の上にのみ留りて、役儀を褫奪せらるゝものは、役料知を沒收せらるといへども知行に及ばず。之を役儀御免と稱す。此等は素より士人たる地位を持續することを得。 士人にして非違の程度知行被召放以下に當るときは、多く閉門の處分を受く。但し、江戸小拂所に勤務したる與力にして、支拂を誤り、且つ謀書したること露顯せるを以て、公事場の裁判を受け、尚言を左右にして事實を白状せざりしものゝ、その罪死に當るといへども、偶大赦に會したるが故に閉門を以て代へられたるが如き異例あり。閉門とは一定の期間居宅の門戸を閉鎖し、公然たる交通を斷たしむるをいひ、その知行を受くると扶持を受くるとに論なく之が給與を停止せらる。 閉門人、先年は門前垣を結、隣家より往來仕、用事相違候處、其以後被(綱紀)仰出有之、相改候趣如左。 一、閉門被仰付候者、表裏共に門を打、其合目を外より板を打付可申事。 一、出格子・窓、何茂板を打、塞可申事。 一、輕き者共、しをり戸躰之片戸開などは、五六寸丸之竹か木にて打留、是も透たる所は薄板にても打付可申事。 一、表裏兩門有之者は、裏門のくゞりより密々無據急用は調可申候。自分に出申義は一向無之筈。妻子迄も同事に候事。 一、裏口無之者は、表門のくゞりより用調可申事。 一、くゞり無之門自然有之候はゞ、頭申談、屋敷廻圍之内に、外より目に懸り不申樣にくゞり程之口付可申事。 午(年不明)六月廿八日 〔御定書〕