三ヶ日間には又藩士互に訪問して祝詞を交換す。賀客は必す座敷に入り、式臺より直に辭し去るが如きことをなさず。賀客を迎ふるものは、先づ熨斗三方を供し、客は雙手又は隻手を以て之を戴くが如き態を爲し、然る後祝詞を述ぶ。小祿の家に在りては、主婦自ら之を取扱ひ、紋服の上に小散を着て客に接す。藩末に至り、婦人の小散を省きて紋服のみとし、男子の熨斗目・麻上下は變じて服紗小袖・麻上下となれり。凡そ三ヶ日の間に在りては、士人の來往するもの秩祿二三千石以上は皆馬に乘り、職掌と食祿とによりて、先拂あるあり或はこれなきあり、兩若黨なるあり一人なるありて、必ず鎗と挾箱とを隨へ、小身の士分・與力・歩は小者一人のみを件へり。小者の着用する合羽は赭色なるを普通とすれども、年寄本多氏のみは栗色なるを用ひき。商人の豪富なるものは、亦桐油合羽を着けたる一僕を伴へり。 正月四日、米商人初相場を立つ。 正月六日、年越と稱し、薄暮より玄關・式臺・茶間・雲隱等に、燈油を盛りたる土器を置きて點燈し、又圍爐裏に豆木を焚き、茶釜にて茶を沸し、中に大豆と山椒の實とを投じ、之を汲みて家族に供す。前者を間燈(マトモシ)といひ、後者を福茶と稱す。この夜門前の松飾を撤し、その位置に松の眞のみを挿む。 正月七日、七草の祝儀を行ふ。七種とは元來菘(スヾナ)・蘿蔔(スヾシロ)・芹・薺・鼠麹(ゴギヤウ)・蘩蔞(ハコベラ)・佛ノ座のことにして・他地方にては多く略して薺・蕪菜を用ふるを、こゝには芹のみを用ふ。芹は之を盤上に載せ、盤は更に桶の上に置きて音響を大ならしむべく裝置し、惠方に向ひ棒を以て打叩きながら、『なん〱七草なづな、ちやうどの鳥を、日本の鳥と渡らぬ先に、かち合はいてぼと〱、かち合はいてぼと〱。』と繰返して唱ふ。この唱句は、『唐土の鳥が、日本の土地へ渡らぬ先に、薺七草囃して云々。』といふべきものゝ轉訛したるなりといふ。唐土の鳥の鬼車鳥を意味することは言ふまでもなし。この日、士家の少年・若黨等未明に起床し、上下を着けて七草を囃したる後、その芹を餠と共に粥に混じて食ひ、以て萬病を除くの藥餌となす。七草粥是なり。