正月二日以降七日に至る間、藤内・非人の來りて米錢を乞ふもの多し。其の中に初午あり。竹籠に紙を張りて脚部なき馬を作り、肩衣のみを着したる男、己が腰をその中に貫き、側面に袴及び鐙を書き、宛然之に乘れるが如き觀あらしめ、『春の始の初午なんぞ、夢に見てさへよいとは申す。こなた屋形へかけこむ駒は、駒は若駒乘手は上手、ヒン々々ドウ々々』と唱へて、馳驅する状をなし、別に一人の太鼓を囃すもの之に隨ふ。又福の神あり。簑笠を着し、阿多福面を顏の右側に懸け、『御座つた〱、福の神が御座つた。福の神といふ人は、天竺天の神なれば、一に俵をふんまへたり。二ににつこりと笑はれて、三つで皆樣息災に、四つで世の中よいやうに、五つでいつもの如くなれ。六つで無量延命を、七つで何事ないやうに、八つで屋敷を建てひろげ、九つこなたへをさまりて、十で徳はどつさり。』と唱ふ。その他、柄を附したる馬首を右手に、鈴を左手に持ち、又兩手に赤き木綿の手綱を牽きたる春駒あり。赤白の狐を土にて作り、之を板に載せたるを捧ぐる正一位稻荷大明紳あり。小さき俵に繩を附して携へ、之を屋内に投ずる福俵福右衞門あり。各佳詞を唱へて家内繁昌を祝す。 正月八日、醫師の家に神農祭を行ふ、一に藥師祭とも稱す。この日以後越前萬歳來り、城内下臺所に伺候して祀詞を述べ、下賜の物品を受け、次いで町會所に至りて技を演じ、後組を別ちて藩士の邸を訪ひ、大祿の者に對しては鏡餠を贈り、之が返禮として玄米一升と錢百疋とを受く。萬歳を室内に招じて特に演技を命する時は、別に祀儀を與ふ。越前萬歳は二十日に至れば、盡く城下を去るを例とす。或はいふ、往時は城中にても舞ひたりしが、勤儉の令ありし後之を廢せしなりと。金澤の町人にも亦萬歳を演ずる者あり、之を地萬歳と稻へ、遍く家中を巡行することなし。又別に隱亡萬歳あり、男女相混じ、小太鼓にて噺し、心中物語の如きを謠物とす。金澤にては藤内を惣じて隱亡と稱することありて、この萬歳も亦近郊の藤内より出でしなり。越中二上村より出でたる猿廻が武家に至りて猿を舞はしむるも亦この月に在り。