正月十一日、町家にては藏開を爲し、武家にては口祀を行ふ。藏開を十一日に行ふことは江戸の慣習に同じく、口祀とは具足に供へたる鏡餠を煮て食するものにして、この鏡餠を截斷することを直すといふは、斬るの語を忌むに因る。この日又『きしう』と稱し、知行所の百姓等土産を齎し士家に至りて祀詞を述ぶ。士家にては之に對して酒肴を饗し、百姓は田植唄など謠ひて抃舞踴躍し、田草取と稱して匍匐しながら堂奧に入るの無禮も尚寛假せらる。盖し『きしう』は、後世吉祝の字を慣用したるも、藩初には吉初と書せられ、元和二年の文書に代官支配の農民より納めたる吉初錢を受取りたることなど見ゆるものにして、元來王朝以降行はれたる吉書の轉訛なるべく、農吏が地頭に見えて農事を告げ、地頭は農民にその勤勞を賞したることなどより起り、遂に廣く百姓と給人との關係に及びたるものなるが如し。藩末に在りては十村・山廻等の農吏が登城して藩の賞賜と饗應とを受くること、正月十三日に於いてするを例とせりといへども、古くは十一日なりしが故に、農民の『きしう』も亦その日に行ふの慣習を生じたるなるべし。沿海の地方にては『きしう』を起舟の義に採り、轉じて『ふなおこし』といひ、海上生活者の安息日として祀宴を張れり。 正月十四日、十四日年越と稱し、その儀六日年越に同じ。 正月十五日、左義長を行ふ。神社にては、境内に齋竹を立て、その下部を藁筵にて蔽ひ、丑の刻を待ちて之に點火す。各家よりはその撤したる松飾・注連飾を齎して又この火中に投じ、少年は昨年中使用せる古筆に十二銅又は百八銅を添へて神社に納むれば、神職は之を左義長と共に焚き、以て手蹟を上達せしめ得べしと信ぜらる。或は新年の試筆を燒き、餘燼高く天に冲するを見て、神慮に適ひ能筆となるの證なりと考ふるものあり。この火にて炙りたる餠を食すれば、亦幸運を得べしとせらる。左義長の際、町方にては歳徳祭と稱し、青少年等團體を作り、歳徳と書したる大行燈を竹竿に貫きて捧げ、『歳徳々々』と蓮呼して社殿の附近を廻り、他の團體と衝突して喧嘩口論するを快とするものあり。この日神明宮に於いて日待の儀を行ふ。 左義長・心太賣と氷賣俳書四時碧所載 左義長・心太賣と氷賣圖