十一月八日を鞴祭とし、鍛冶・鑄物師・飾職など業を休みて酒宴を催す。九日は山祭にして、大工・指物師・木挽・材木商又は農家にして林業を兼ぬるものなど、業を休みて山神を祭り、各山に入るを戒む。十三日、塗師職のもの粉糞祭を營む。粉糞は漆器榡材の合はせ目・割れ目などを塞ぐ材料なり。二十二日より二十八日まで、東西本願寺別院に報恩講を營み、近郷近在より群參して殿賑を極む。三十日を宇賀祭とも稻荷祭とも稱す。信仰者は稻荷神祉に詣でゝ赤飯と揚豆腐とを献げ、又は之を自家の屋上に置きて稻荷神に供ふ。この月中旬、切米取の足輕等に本年九月より十二月に至るまでの給米を與ふ。當月の内に諸橋・波吉兩大夫の勸進能あり。又冬至に當る日には、醫師・藥種商等神農祭を營みて酒宴を張る。この頃男子の非人にして、菅笠の裏に竹枝を挿みたるを戴き、紅木綿の覆面を爲し、襟に茜木綿を掛けたるを着て錢を乞ふものあり。之を節季候と稱し、多く二人相伴ふを常とす。 十二月八日を針歳暮といひ、一般の婦女及び裁縫師など針を使用する者は團子を入れたる小豆汁を作り、之を針箱に供す。十九日の頃より戸々煤拂を行ふものあり。高祿の家に在りては、平素表と奧とに嚴重なる差別ありといへども、この日に限り女子も玄關に出で來り、男子を拉し去りて胴上を爲し、煤唄を謠ひ、終りてその者に煤粥と酒とを饗す。男子若し胴上せらるるを欲せざる時は、捉へられたる際『直す』と唱へて放ち還さる。許されたる者は後に自家より酒肴を齎して、之を奧向に贈るを例とす。 十二月二十五日より所々に年の市を開き、歳末入用の物品は、悉く之を購ひて貯藏す。この頃人持以上の武家にては、門松に用ふる眞松の下附を出願し、二十九日頃より之を立て、又注連繩を張る。門松は門・式臺・中式臺・臺所に設けられ、高さ五六尺の眞松に細き竹二本を添ふるものにして、高祿の家にあらざれば爲すことなし。注連繩には俵藻・讓葉・田作・昆布・蜜柑・木炭を挿み、門戸を横ぎりて長く張らる。別に室毎に輪状のものを飾り、之を間繩(マナハ)と稱す。商家にては戸口に輪飾を施すといへども、一向宗の信者のみは之を爲さず。この頃新年用の鏡餠及び熨斗餠を作る。餠は自家にて作り、營業者をして作らしめ、又は搗廻(ツキマハリ)をして作らしむ。搗廻とは釜・蒸籠・臼・杵などを運び來りて餠を製し、その賃錢を受くる者をいふ。この頃知人の間に、歳暮を祀して物品を贈答す。幼年の男兒は、歳末より天神堂を飾りて正月に及ぶ。葢し藩侯の祖先を天滿天神なりとするに因るなるべし。晦日、孟蘭盆以後に於ける貸借を精算し、除夜には寺院に詣でゝ曉に徹するものあり。子の刻一向宗以外の諸寺、百八聲の梵鐘を鳴らして舊年のこゝに終れるを報ず。