藤内は一に籠屋(カゴヤ)・掃除之者又は隱亡ともいひ、非人頭も亦これより出づ。その郡村を巡回する時には藤内といひ、武家及び町方に至りて祀儀の米錢を乞ふ時は籠屋といひ、公事場及び町會所にて藩用を勤むる時には掃除之者と呼ばれ、死人を取扱ふ時には隱亡といはる。穢多一名革多も藤内と同種なるが如く目せらるゝことあるも、こは獸を屠り皮を剥ぐを業とするものにして、自ら差別あり。城下の郊外に藤内頭仁藏と三右衞門とあり。加賀・能登二國に亙る藤内を統ぶ。藤内は寶暦中に於いて千戸を數へたりといひ、その職務は、公事場・算用場・町會所に於ける囚人に關する事を掌り、或は廻藤内といひて郡村を巡回して非人を監督し、犯罪の嫌疑あるものを捕へ、之が報酬として村々より草高の割合に應じて米・麥・大唐などを受け、通常家業として燈心・草履等を製し、海濱に在りては漁業に從事し、又は請作を爲し、死者を荼毘に附す。 又城下中島町及び郊外笠舞村に非人頭と稱するもの七人あり、町中の非人を取締り、病死せる非人を葬り、藤内頭に預けられて犀川川下の牢獄に繋がるゝ囚人の捕繩を取り、武家・町方に祝儀ある時は米錢を乞ひ、正月・節句・盆にも亦施與を求め、家業として竹子皮の草履又は下駄の鼻緒を作る。非人たるものは、元祿四年二月以降藤内頭より乞食札を受けざるべからざるの制となり、犀川下流の柳原に設けられたる小屋に入るを得、又は非人頭の家に佳するものあり。乞食札を有せざるを散乞食といひ、他藩のもの若し來りて乞食するときは之を領外に追放す。これ等の制は藩末に於いて綏漫となれること勿論なり。 一、定非人札持、辰四月晦日改高男女四百三十五人、但毎月増減御座候。五六年以前には六百五十人餘も御座候。唯今者毎年減申方に御座候。 一、十七八年以前當御場にて被仰渡候は、頃日非人共町方にて奢申者共有之候。跡々より被仰渡候處に沙汰之限に候。切々非人頭共相廻し、おごらせ申間敷旨被仰渡候。向後は町中非人頭共相廻申旨、毎日當御場迄可申上旨被仰渡候。其節之御奉行樣は前田兵左衞門樣・小塚八右衞門樣・今村次郎左衞門樣・長井源兵衞樣・松宮吉丞樣・渡邊甚左衞門樣之由申候。 一、定非人共へ札相渡申儀は、元祿三年大火事の翌年より札相渡申候。札之仕樣、御公事場え御窺申上相渡申候。 一、他國者によらず、異形成躰之者町方に而勸進仕ものは、早速捕召連罷越可申旨、栗田源太兵衞樣より被仰渡候。此儀加藤十左衞門(盜賊改方奉行)樣より初り申候。夫前は御公事場へ召連罷出申候由申候。 一、町方にて異形成躰之者捕申候而も、町奉行樣へ者御案内不申上候。尤御斷可申旨被仰渡も無御座候由申候。 右之通、仁藏・三右衞門申候間、覺書仕上之申候。以上。 辰閏(享保九年)四月十八日 〔町會所御定書〕