藤内の中に、春は福之神一名大黒舞、夏は鐵輪切・簾切一名綾織、冬は節季候となりて町方・村方を巡る者あり。元來非人の取締と他國者の調査は、廻藤内の密かに行ふ所にして、公事場奉行の所屬たりしが、元祿四年二月盜賊改方奉行加藤十左衞門は、六人の藤内に命じてこれらの伎藝に從はしめ、廻藤内以外に改方の目明を勤務せしむることゝせり。其の後此等六人は探偵上何等の効を奏せず、目明の職務は專ら廻藤内の掌中に歸したりしも、尚福之神等の伎藝を以て米錢を求むるの慣習のみを存續し、更に初午・春駒・萬歳等の稼業を増加するに至りしものゝ如く、隨ひて人數の制限をも撤せられしなるべし。文政九年藤内頭手下の者男女、町方に出で夜に入るまで唄ひ囃すを以て、晝間の外は之を禁ずべしと命じたることあり。 舞々は幸若の遺蘖なりといへども、前田綱紀の初世より衰微して、物貰の列に下れり。前田吉徳の世享保十六年二月の記には、金澤の舞々に筋違橋の淺屋勘右衞門、荒町の山崎屋小兵衞、木新保町の笠屋又兵衞、西御坊町の吉野屋善右衞門四人ありき。舞々は年頭・祝日等に舞を唄ひて藝を賣るものにあらず。家中に知行加増等のことある時、祝儀の米錢を請ふものなりといへり。後世には石川郡藤江村に二戸の舞々ありて、共に三太夫と號し、佳節には城下に入り來りて施與を受けたり。 上記の外、非田地の者に八右衞門あり。城下筋違橋に住し、毎年暦を配付して錢を受くることを業とす。月頭(ツキガシラ)賣といふもの即ち是なり。混見摘寫によれば、八右衞門の屋號は瀬領屋といひ、佐久間盛政の在城時代に於ける舞々大夫の裔なりとし、三州奇談にも、盛政の金澤御坊を攻めし時、城兵能く防戰したりしが、瀬領の邑民盛政の軍に屬し、術策を以て小立野方面より之を陷落せしむ。是を以て盛政その功を賞して、城下に物を鬻ぐことを許しゝが、前田氏の時に及びて月頭を賣る者となれることを記さる。瀬領は犀川の上流にある石川郡の部落なり。葢し三州奇談の言ふところは、事奇拔に過ぎて深く信を措くに足らず、恐らくは著者堀樗庵が架空の説を爲しゝものゝ如し。混見摘寫に彼等を以て舞々の子孫なりとするもの、肯綮に中れるにはあらざるかと考へらる。