加賀藩の學校にして、寛政より明治の初年に至るまで繼續せしものを、明倫堂及び經武館となす。而して明倫堂は文學校にして、經武館は武學校なるが故に、科目の種類は全然異なりといへども、藩侯の發布する命令・諭達・規則に至りては、概ね彼此相關聯したるのみならず、校舍は常に同一地域内に建設せられ、學校奉行も亦その事務を兼掌せり。 文武兩學校の所在は前後三たび變遷せり。初め寛政四年開校の時には、今の兼六園中の西南部に在りて、この地は元と老臣横山氏の邸地なりしが、元祿十年に上地となりし所なり。然るに前田齊廣の時、世子の爲こゝに新館を起さんとするの議ありしを以て、文政二年二月二十七日學校の授業を休止し、舊奧村伊豫守有輝の別邸たりし今の兼六園内の東隅に移築し、六月六日開講せり。葢し世子の新館と稻するものはその名義に止り、實は齊廣が異日の隱棲に宛てんと欲したるなり。齊廣が退隱の意あることを初めてその老臣に告げたるは、早くも二月二十八日に在りしを以て之を知るべきなり。既にして建築の業に着手せられしが、規模次第に擴大し、移築せられたる學校の敷地を併合するの要ありしかば、五年三月十二日再び授業を休止して、之を仙石町なる舊と大槻内藏允の邸址に轉ぜしめ、七月その功を竣へたり。爾後廢藩の時に至るまで、學校は常にこの所に在りき。 明倫堂及び經武館扁額石川縣師範學校藏 明倫堂及び遵經武館扁額