學校創立の沿革は、遠く第五世前田綱紀の時に遡らざるべからず。綱紀は夙に文學を好み、多く鴻儒を祿したりしが、之と同時に四民教導の爲文武學校を設立せんとの志ありて、略その規模を定めたりしといへども、未だ實行すること能はずして薨じたるなり。綱紀がこの計畫ありしことは、元祿四年自ら定めたる大願十事中に、『先聖殿並學校造營事。』と記したるにても亦察すべきなり。その後歴世の藩主、皆國事の多端なると治世の短少なりしとによりて、之を顧みるの暇あらず。十世前田重教に至り、綱紀の遣志を繼がんとの志ありしも亦未だ着手するに及ばざりき。是を以て十一世前田治脩は、己之を成就せんと欲し、老臣奧村河内守尚寛・横山山城守隆從・前田大炊孝友等に命じて校舍造營の事に當らしめしに、尚寛等命を奉じ、寛政三年九月工を起し四年二月に至りて竣りしかば、先に京師より聘したる老儒新井白蛾をして之が學頭たらしめき。その文學校は十五間に七間、白蛾の書せる明倫堂の扁額を掲げ、武學校は九間に七間、老臣前田直方の筆に成る經武館の扁額を顏す。次いで學制略備はり、教育の基礎始めて定まりしを以て、治脩は閏二月六日親書を公にして學校を開設するに至りたる理由を述べ、尚寛もその意を敷衍して士民一般に布達せり。 爲四民教導、泰雲院(重教)殿學校被仰付御内意之處、御逝去に付、今般右思召を繼、文武之學校申付候。依之新井白蛾儀學頭申付、其外諸藝師範人等、右用追々可申付候條、諸士は勿論、町・在之者迄も、志次第學校へ罷出習學可仕候。 右之趣一統可被申渡候事。 寛政四年壬子閏二月六日 〔政隣記〕