明倫堂及び經武館開校の典は、同年三月二日を以て擧行せらる。この日學頭新井白蛾は孝經を講じ、前田治脩自ら席に臨み、臣僚と共に之を聽き、以て士民を奬勵せり。 寛政四年三月二日、學校御開に付、學頭新井白蛾え孝經講釋被仰付、御前御出御聽聞被遊候。頭分以上屆次第聽聞被仰付候皆被仰出。尤熨斗目・半袴着用、朝六半時學校揃之事。 〔政隣記〕 明倫堂創設の際に於ける教師は、學頭新井白蛾の外、助教に長谷川準左衞門・新井升平、助教雇に澁谷潜藏・中島半助・林翼、讀師に宮井柳之助・湯淺半助・稻垣左兵衞、天文學に本保十太夫、歌學に野尻次郎左衞門、算學に村松金太夫等あり。然るに白蛾は、授業の開始に先だち老齡を以て歿したりしが故に、幾くもなく長谷川準左衞門を擢んでゝ都講とし、助教以下を率ゐて校務を處理せしむることゝしたりき。而して上記の教師中、澁谷潜藏は横山隆從、中島半助は前田孝友、林翼は今枝内記の家臣にして、皆藩の陪隸なりしを以て見れば、當時眤近の士分中、如何に人材の缺乏したりしかを知るべきなり。蓋し綱紀の時に學士を招聘すること甚だ多く、好學の士之に就きて業を受けしもの亦少しとせざるも、治脩の頃に至りては、已に悉く泉下の人となりしを以て、或は遠く白蛾を京師より招き、近く陪隸を拔擢せざるを得ざりしなり。且つ經武館の師範たりしものにも、亦陪臣あり、與力あり、足輕ありしを以て考ふれば、這次の任命は必ずしも家格に拘泥することなく、適材を適所に置くに於いて最も意を注ぎしものゝ如し。この年六月授業の開始當に近きにあるを以て、明倫堂及び經武館の規定を制して之を校内に掲示せり。