文武學校の授業は、この年七月二日を以て開かれしかば、士人向學の氣鬱然として起り、文教初めて普及するに至りたるかの感ありき。 然りといへども學校に於いて教養せらるゝ所のものは、徒らに書を讀み文を屬するを以て能事とし、その弊の趣く所、經國濟民の何なりやを辨ぜす、藩治の爲に有用の材たるもの殆ど稀なりしなり。是を以て第十二世前田齊廣は、襲封の翌年夙くも缺陷のある所を察し、享和三年七月大に諸制を増減し、既に廢れたるを興し、未だ弛まざるに張り、廣く人材を擇びて教職に就かしめんことを宣言し、以て鼓舞奬勵を加へたりしに、學事大に刷新せらるゝに至りたりき。 寛政四年以來學校被建置候得共、學問執(修)行不宜故、書を讀み物を覺候事而已にて、孝悌忠信之道を勵み、當務有用之義を相學び、人品執行致候儀曾而無之、學問之詮無之候付、此度御改、於學校都而有用之學問可仕候。諸士以上之儀は、別而聖賢之道を學び、道理を辨、私之意地を離れ宜敷成立、相應之御用可相勤心掛專要之事に候。且諸士内學才有之人々は、追々助教・讀師等被仰付候。子弟之儀茂、御選學之上助教・讀師等被仰付候得共、其餘は先生徒被仰付、仁義有用之學問執行可仕事。 一、文武を勵み、士業不怠儀は、忠義之基と被思召候。然而武學校之儀は、年中一藝僅の出座敷に而、執行之ために不相成無詮事杯与存、實に心掛候人々茂不致出座族も有之樣子被聞召候。武學校被建置、藝術茂御覽可被遊ために候得ば、右樣之族有之間敷候。尤師範人宅之稽古場等え茂猶更致出情、武學校は邂逅(タマサカ)之儀に候得者無怠可致出座候。何茂藝術致上達、無藝無能之士与相成、不忠之覺悟有之間敷儀肝要被思召候。是等之趣會得仕、無怠急度執行可仕事。 右之通被仰出候條、謹而可奉得其意候事。 享和三癸亥七月 〔北藩秘鑑〕