此の時明倫堂に於いては、學頭等の資格を改め、學監を置き、新たに討論席を設け、經武館に在りても、亦武術師範人と稽古日割とに多少の改定を行ひしが、更に文化三年に至りて、學頭と學監とが從來缺員たりしを以て、これを發する等の小變革ありき。 然るに第十三世前田齊泰襲封の後、士風漸く荒怠し、學事隨つて不振となり、學生の就學するもの頗る減少せしかば、國老奧村榮實、風俗の頽廢は教化の行はれざるに依り、人材の缺乏は訓育の足らざるによるが故に、大に紀綱を振張し士氣を作興せんと欲せば、須く先づ學校を隆盛ならしめざるべからずとなし、具に意見を書して齊泰に上れり。齊泰之を嘉納し、乃ち榮實及び横山政和・奧村惇叙をして學校の改革を主宰せしめたりしに、榮實等督學渡邊栗・教授陸原之淳と謀り、就學を督促し、教師を更迭し、職俸を増加し、課程儀式を整正せり。世に之を天保十年の學政修補と稱す。經武館の規則と、師範人稽古割等も亦同時に改められたりき。