明倫堂創設の際に於ける職員は、年寄奧村尚寛・横山隆從・前田孝友及び家老大音帶刀を總裁とし、定番頭並不破和平外三名を學校頭とせしが、寛政四年三月開校の後に至り、總裁又は學校主付といふもの年寄三人・家老一人、定火消人持組二人、學校頭又は學校方御用といふもの物頭又は物頭並四人、横目たる平士三人、總裁席執筆たる歩士二人、學校頭席に屬する與力二人、書寫役たる歩士二人、書籍出納役たる歩士三人、學校頭席等の留書たる足輕約十人を命ぜられ、その總裁席は城内に在り、火消は自宅にありたりといへども、他の諸職員は皆日々出勤せり。又教員には學頭一人、助教五人(儒者二人・陪臣三人)、讀師八人(歩士にして儒者見習たるもの)、皇學教師一人(儒者役平士)、歌學教師一人(組外)、天文學教師一人(物頭、後に儒者)、算學教師一人(歩士)、易學教師一人(助教兼務)、醫學教師一人(醫師)、禮法教師一人(歩士、後に平士)を命じたりき。然るにその年五月學頭新井白蛾歿したりしかば、翌六月明倫堂御定書を定めて、學頭一人・都講一人・助教七人・讀師八人を定員とし、學頭は之を缺き、都講には五人の助教毎月交番之に當るの制を取り、次いで翌年十二月助教長谷川準左衞門を以て專任の都講たらしめたり。又職員の待遇に就きて見るに、學校御主付・學校方御用の役料知は一定することなく、教員の手當にもまた高下種々あり。學頭新井白蛾は秩祿三百石にして、後に黌秩五十石を加ふ。その黌秩といふものは之を職俸と見るべきものなり。長谷川準左衞門は秩祿百五十石にして、都講たる後役料知五十石を加へ、新井升平は秩祿二百石にして助教たる役料知を受けざりしものゝ如し。