享和三年學校改革の時に當りては、學頭一人を置き、その身分は組頭並にして役料知百五十石とし、又學監一人を置き、その身分は大小將横目格にして役料知百石と定む。次に都講一人ありて、その待遇大小將組に同じく、役料知を五十石とし、助教及び助教格と讀師及び讀師格とは人員不定にして、士分以上たるものは助教或は讀師に、士分以下のものにありては助教格又は讀師格たらしむることゝせり。然れども叙上職員の中、學頭と學監とはその職名あるのみにして、未だ曾て實際に任命せしことあらざりしを以て、文化三年に至りて之を廢せり。 次いで天保十年の學政修補により、學校主付三人・督學即ち學校方御用四人・教授三人・助教五人・助教加人一人・訓導二人・訓導加人三人・訓導加人格二人・訓蒙六人・句讀師二十三人を置き、督學の役料知は百五十石、教授は七十石、助教は五十石、助教加人は年給銀二十枚とせり。訓導以下にして若し有祿の者ならば役料知を給せず。無息即ち無祿なるもの之を勤むる時は、訓導に年給銀十五枚、訓導格に銀十二枚、句讀師に銀十枚を與ふ。この外書寫役二人・御書物出納方二人・學校御横目七人ありて之に屬せり。この際經武館にも亦督學を置き、明倫堂督學中の一人をして兼攝せしめき。 この後三十年に亙りて、殆ど著しき變化を見ることあらざりしが、明治元年十二月四民教導の爲に講解席を設くるに及び、教員の不足を生じたるを以て、陪臣の儒士を登用して助教雇たらしめ、之と同時に素讀生を新設の濟々・雍々二館に移したるが故に、明倫堂に於ける句讀師を廢することゝせり。二年三月藩治職制を改定して、藩吏の階級を九等に別ちたりしが、この時學校主付・督學・教授等の名稱を廢し、新たに學政・軍政の二寮を設け、知事(二等官)・副知事(三等官)・書吏(七等官)・二等書吏(八等官)を置きて文武の學政を掌らしめ、文學局に文學教師を、武學局に武學教師を置けり。その一等文學教師と一等武學教師とは四等官に當り、二等文學教師と二等武學教師とは五等官に當り、三等文學教師と三等武學教師とは六等官に相當す。而して此の時に於ける年俸の規定は、四等官は金四十兩、五等官は二十五兩、六等官は八兩なり。但し知行百石以上のものは、百石毎に職俸十分の一を減ずるが故に、知行千石以上は無職俸となり、知行百石以下は職俸全部を與へらるゝの制たりしなり。同年六月十七日前田慶寧藩知事となり、從來の學政・軍政二寮を廢し、更めて學校・兵政の二係を置き、權少參事・正權大少屬・史生・藩掌・出仕等の諸官を補任して教育行政及び教授の任を分擔せしめ、先の二年三月に定めたる知事以下教師等の名は皆之を廢せり。次いで同三年文武官判任班列等級を改定したる時、學校に少屬一人・權少屬十人・藩掌六人を置き、少屬の年俸は現米三十三石、權少屬は二十五石、藩掌は十四石と定めしが、同年十月明倫堂廢止せられたるを以て、役員・教師皆悉く解職せらるゝことゝなれり。