學校は、當初四民を教導するの趣旨なりしを以て、平士並以上たると平士並以下たるとを問はず、その子弟は共に教育したりしこと言を待たず。就學の年齡は之を定めずといへども、凡そ八歳より十四歳に至るまでを素讀生と稱し、學校に句讀師を置きて素讀を傳習せしむるを法とす。然れども多數の兒童に對して句讀を授くるは、當時の個人教授法に於いて甚だ困難とする所なるのみならず、校舍の設備到底悉く收容するに堪へざるを以て、素讀は各自隨意に師を擇びて之を傳習することを得しむ。而して士分以上の子弟にして十五歳に達するときは、已むを得ざる事故あるものゝ外、學校に入りて生徒となるを本則とするが故に、十四歳の年末に至ればその氏名を學校に屆出でしむといへども、亦不就學者を強制出席せしめ若しくは懲罰したる事例を有せず。凡そ素讀生たらんと欲するものは、毎月四の日に上下を着用して學校に至り、年齡を記したる名刺を提出するを要し、句讀師に誘はれて訓蒙の席に至り、訓蒙は規則書を讀みて之に諒解せしむ。初入式といふもの是なり。而して兒童の身體強壯にして習學に堪ふと認めらるゝものは、假令その年齡十五歳に達せざるも尚生徒たることを得べく、且つその階級平士並以下に屬するも、俊髦なる時は亦素讀を終らずして特に生徒たるを命ぜらるゝことあり。天保十年修補の際に至り、生徒は入學生と改稱せられ、年寄の嫡子・嫡孫なりとも亦入學生たらざるべからずとなし、平士並以下の入學生を廢せらる。入學生の入校するを初見式と稱し、正月十七日に於いて之を執行す。初見式には上下を着し、當日の教授に對し束脩として扇子一對を納む。而して督學は入學生心得の大要を口述し、白鹿洞書院掲示一本を與へ、教授その一部を講解し、了りて會讀席に入らしむ。この日入學生となりしものは、督學・教授等の私邸を歴訪し、將來その薫陶を受けたしとの意を演述す。後上下に代ふるに常服を以てせり。若し學術劣等にして入學生たること能はざるもの未熟願を提出するときは、十七歳に至るまで尚素讀生たることを得。かくて通常十五歳より二十三歳に至る九ヶ年を入學年限とし、一ヶ月六回會讀席に出でゝ勉學するを要し、三ヶ年間八分以上の出席を爲したるものは論語匯參一部を賞賜せられ、その後三ヶ年聞怠らざるものに孟子匯參を與へ、更に三ヶ年間勵精する時は大學匯參・中庸匯參を與へ、全期間を通じて四書匯參一部を得しむ。入學生には授業料を徴することなく、その在學年限中なるときは家督を相讀したる場合にも尚退學するを得ずといへども、年寄又は人持組の士なる場合は此の限に非ずとせられ、入學生にして藩吏の職に從事するに至りたるときは、亦入學生たることを免除せらる。明治元年七月學制を更改して入學生を勤學生と稱し、年寄の列にあるものも年少の輩はその勤務を止めて入學を命ぜられ、同年十二月十五歳より三十九歳までの平士にして役儀なきものは、日々明倫堂に出校して儒學を學び、又は壯猶館に至りて洋學を受くべき規定となれり。以上は明倫堂の學科中儒學に關する學習の方法にして、その儒學以外に就きて研究するものは、單に篤志者が毎月數回講義を聞き、若しくは會讀の爲出校するに止れり。