學生數に就いては、寛政四年學校創立の際に於いて出校を出願したるもの二千六百人に及びたりと見ゆ。然れどもこは當初四民教導を標榜したるが故に、庶民に至るまで生徒たらんことを希望したるものあると、一は世俗の好んで新奇を迎へしに因るべく、且つ學校に在りては素よりこの多數を収容するの設備なかりしを以て、歩士並以上のものと人持組に屬する士分以上の陪臣とを入學せしめ、その他は講書聽聞をのみ許すことゝせり。されば當時その實數凡そ幾何に上りしやは之を知ること能はざるも、文化十年大島維直の建言中に素讀生の三百人を越ゆることを記し、天保九年大島桃年の學政私考中に生徒人數大略二百人と圖り云々といひ、嘉永元年同人の意見書中に入學生大數二百六十人といへば、素讀生も生徒若しくは入學生も共に二百人乃至三百人なりしものゝ如し。又寄宿生に就きては、創立の際學校の區域中に學舍を設置し、志願者の自費によりて寄宿することを許し、特に貧窶なる者に食料を給するの法ありしといへども、實際に行はれたるにはあらず。明治元年八月寄宿舍を置き、二年三月更に之を擴張して南北兩院とするに及び、漸くその制の備りたるを見る。 明倫堂の學科は、當初儒學の外に易學・皇學・律令・醫學・本草・天文・暦學・算學・禮法等ありき。而して儒學に於いては、會讀の際會頭となり若しくは講義を試むるを教授又は助教の任とし、素讀は句讀師之を授け、易學は助教の兼務する所にして、皇學以下には別に教師を置けり。文化元年六月易學を除き、生徒に對策事業を課せしが、後幾くもなく舊に復し對策を廢ぜり。天保修補の際定めたる學科目には儒學の外に易學・醫學・算學・禮法あり、又素讀生の習字をも調査することゝし、嘉永五年六月新たに皇學講釋を加へたりき。皇學は創立の際その目ありしといへども、一旦廢したるを以て再興せるなり。明治元年七月又學政を改め、入學生の儒學講習を會讀と講解との兩席に別ち、八月寄宿生の餘暇に撃劍及び西洋馬術を學ばしめ、九月入學生の會讀を廢し、十二月初めて四民教育の爲に講解席を開き、素讀生を別に附屬の濟々・雍々二館に收容せり。二年六月寄宿生及び諸士に命じ、日課を定めて撃劍を學ばしむ。寄宿生に在りては固より撃劍を學ぶの制ありしこと前に言へる如くなるが、この前年悉く經武館の舊式武術を廢せられたるが故に、是に至りて諸士も亦各隨意の師範に就きて練習するの外、別に明倫堂に出でゝその技を演ずることを命ぜられたるなり。