藩侯の臨校は、創立以來屢これありしが、天保十年以後に在りては、一年中初度の臨校の際教授をして大學三綱領の講釋を爲さしめ、諸士をして陪聽せしめき。その平日登校の時に於いては、必ず會讀又は講釋の席に臨むを常とせり。 聖堂は、學校創設の際之を經營するの意ありて、既に老臣本多氏に費用の献納をすら命じたりしが、幾くもなく中止せり。寛政六年四月明倫堂の傍に天滿宮を勸請し、倉稻魂神を相殿とす。世に之を聖堂と稱したりといへども、實は先聖先哲を祭れるものにあらず。その後聖廟建設の議屢唱道せられたるも、未だ實際に着手する機運に到達せず。纔かに慶應三年集學所を城東卯辰山に建設するに及び、こゝに聖廟を立て、銅像を安置して祭祀したることあるに過ぎず。釋菜の禮は、毎年正月元旦明倫堂に於いて行ひしが、天保十年より二月上丁の日と改め、若しこの日事故ありて執行すること能はざるときは二月仲丁又は仲秋に延期せり。孔子の像は、初め畫像を用ひたりしが、この年以後明の朱舜水の書せる至聖先師孔子神位の木主を安置せり。こは曾て前田綱紀の命じて作らしめたるものなりといふ。この日學校主付以下の教職員學生一同熨斗目・上下にて出校し、以て莊嚴なる式典を擧げたりき。 明倫堂に於いては、書籍を飜刻せることなきにあらずといへども、前後を通じて僅かに欽定四經・四書匯參・鑑本四書あるの外、前に載せたる白鹿洞書院掲示に跋文を加へしものを出版したることあるに過ぎず。 明倫堂に於ける學科中、醫學に關するものありたることは頗る注意せざるべからず。醫術の研究は、元來師家に就きて醫書を讀み診療の法を傳習するに止りしが、公私の醫師日を定めて相會し、講説若しくは輪讀の法によりて互に切磋琢磨することゝなりたるは、醫育上著大の進歩なりといはざるべからず。この事たる實に寛政四年學校創立の時に於ける計畫中の一にして、同年六月の時間割覺書中に『醫學並本草の稽古の爲め、毎月兩日程日を極置可申候。』とありて、之に基づける同年の學校稽古割には『朔日四半時より醫學・本草等○十五日四半時より醫學・本草等』と記し、一ヶ月中二日を醫學の稽古日と定めたりしが、この時未だ擔任教師を得ること能はず、隨ひて開講の機運に達せざりしなり。 朔望醫學・本草講釋有候に付、御支配御醫師、並に公事場三ヶ所掛り町醫師、曁町醫者聽聞に罷出候儀に候間、右講日は指出被成候旨致承知候。醫學學頭未極り不申候間、相極、講釋御座候はゞ、人々承合罷出候樣御申渡可被成候。以上。 七月四日(寛政四年)不破和平(浚明) 高畠五郎兵衞樣 〔日本教育史資料〕