然るに寛政十年八月に至りて左の布告あるを以て、この時初めて開講せられたるを知るべく、而してその稽古日を三日・二十五日としたるは、前規程にある朔望が式日にして、學校の休日と定められたるを以てなり。 於學校毎月三日朝・二十五日夕、醫學稽古別に被仰付置候に付、御家中の醫者・町醫者并子弟相屆候人々は、罷出候儀勝手次第之旨被仰出候に付、夫々申渡可被得意候事。 〔日本教育史資料〕 次いで享和三年六月二十四日附の毎月稽古割には、『四日夕八時より醫學○十一日夕八時より醫學○二十四日夕八時より醫學』と記したれば、この時に至りて醫學の稽古日を三回に増加したりしなり。而して同じ頃の文書に、三日の内一日を本草の會讀とし、一日を書生の論講とすといへば、醫學の講釋は殘蝕の一日を以て當てたりしことを知るべく、又文化三年五月には、陪臣の醫師・藩醫の門弟・陪臣特志者等の醫學出席に關する手續を規定せり。 陪臣の人々是迄文學校へ初て入坐願方、講書・聽聞に不限、禮法・算學・和學・令之稽古罷出候分、都而御儒者へ相達來候へ共、以來は講書・聽聞等は御儒者へ相達、其外は其品々之師範人へ相達可申事。 一、陪臣醫者、且御醫者中弟子、並に陪臣醫者弟子、醫學に出座仕度者は、醫學指引御醫者へ相達可申事。 一、醫者の外陪臣之人々、醫學に出座仕度者は、是又醫學指引之御醫者へ相達可申事。 一、町儒者之分出席之儀、是迄町奉行迄相願來候へども、是亦以來は御醫者・其品々之師範人へ相達可申事。 右之通、私共詮議仕候に付御達申上候。御聞屆之上、夫々被仰渡御座候樣仕度候、以上。 五月(文化三年) 〔日本教育史資料〕 降りて天保十年學政修補の際の稽古割にも、『三日夕九半時より醫學○十三日夕九半時より醫學○二十三日夕九半時より醫學』とあれば、亦舊の如く一ヶ月三次の稽古日とし、その後連綿として繼續したる如きも、惜しむらくは教師の何人なりしや、課程の如何に定められしや等に就きては、毫も之を究むるの資料を得ること能はず。