經武館の稽古人は、平日各自師範人の道場に就きて傳習し、隔月一回師範人と共に出館して講習するの制とし、開校初期にありては歩士並以上のもの及び其の子弟のみを出校せしめしが、後には打太刀方として陪臣・足輕にも出席することを許せり。その出席者の状況に就いては、今全く之を知る能はず。 經武館の學生に如何なる階級ありしかも、亦同じく之を詳かにすること能はず。一説に、文學と武術との階級を比較して、儒學の素讀生は武術に於いて平又は表と稱するものに當り、素讀を終りて生徒又は入學生といひたるは折紙・切紙又は初傳に對し、句讀師は中段・惣目録又は目録に當り、訓蒙は准免許又は皆傳に當り、訓導又は助教は免許に相當す。而して儒學には同階級に二種の稱呼なきも、武術に至りては、流義によりて同程度に稱呼を異にするものありしなりと。然りといへども此の如き比較は固より公然存せしにはあらざるなり。 經武館に出校して武藝に優秀なるものには、藩侯臨場の際『御意申聞け』を行ひしことあり。又毎年諸師範家に於いて所屬門弟の稽古日數を調査して上聞に達し、その特別勉勵したるものに袴地を賞賜せしことあり。天保十一年の如きは、各稽古場に於いて最も優れたるもの二人を選擇せしめ、藩侯自らその武術を槍閲せしことなどありて、常に之が策勵鞭撻を怠らず。而して藩學の制、固より士人をして文武二道に兼ね通ぜしむるを目的とせしが故に、明倫堂に於ける儒學の研究は幾分之を緩にして、全力を一方に費すことを避けしめき。天保十年、春秋兩度の試業が入學生をして心神を勞せしめ、時日をその準備の爲に消すこと多きを憂へ、之を一回に減じたるも亦武術奬勵の趣旨に出でたるなりといはる。