加賀藩に於いては文武兩學校の外、學問勃興の機運に促されて起りたる郷學に、能美郡小松町の集義堂ありき。集義堂は始め小松學問所と稱し、後に習學所と改む。一に之を集義堂といふは、校内に集義と書せる扁額ありしが故にして、初め洛儒西依周行毫を揮ひ、後に榊原守典及び前田齊泰之を改書せり。學校の位置は西町の内今の警察署の在る所に當り、寛政六年醫師梁田養元・小林笠坊・橋本了迪・洲崎侗庵・石川春庵等、町奉行有賀清右衞門と謀り、藩の許可を得て設立したるより起る。然るに彼等は元より刀圭を業とするものにして、專ら學事に力を致す能はざりしを以て、幾くもなく石川郡鶴來の儒金子有斐を聘して教授の任に當らしめしが、次いで町奉行由比勘兵衞の大に盡力するに及び、養元・笠坊も奮勵して交々教鞭を採れり。又町年寄北市屋榮助・金平屋甚右衞門が經營の衝に當りたる時には、上田作之丞・寺田九之丞等を金澤より招き、天保より嘉永に至る間には湯淺丈次郎教師となり、その後曾田左助・新井周藏・木下仁平・今川伴樂・北村順吉・一色覺右衞門・千秋順之助・稻垣此母・鶴見小十郎等、相前後して育英の事に努めたりき。藩末に於ける集義堂の教科用書は、四書・五經・小學・蒙求・孝經・十八史略・國史略等にして、外に醫學及び算術を加へ、試驗法又は入學時期の如きは一定せず。生徒の年齡は七八歳より十五歳に及び、その數約五十人にして寄宿と通學との別あり。寄宿費は之を自辨せしめき。講釋又は會讀は三八・五十等の日に於いてし、また毎月一次の定日に庶民をして隨意に聽講せしむるの法を設く。教師は教諭一人、年給大約銀十枚とすれども、時に之を置かざることあり。句讀師四人、生徒の數によりて増減あり、年給約銀二枚。主附は町年寄一人、年給約銀五枚。同肝煎二人、年給約銀二百目。寄宿主附一人、年給約銀二百目・日給米五合。小使一人、年給約六十目・日給米五合とす。校費の年額約銀二貫二百目を要し、町費により之を支辨せしを以て、生徒よりは束脩謝儀を徴收せず。釋菜の禮は、天保年間より仲春上丁の日を以て之を行へりといふ。