小松町に在りては安政の頃別に修道館を建築し、この地に駐在する歩士以上の文武を修業する所となしたるも、その設備規則等に關しては今之を徴すべき文献を存せず。 藩學は士分以上の子弟の教育機關なるが故に、士分以下のもの若しくは農商の徒にして文字を學ばんとする時は、寺子屋に就かざるべからざりき。凡そ寺子屋は、その師匠たる者隨意に之を開設し、藩の規則によりて何等の制限を加へらるゝことあらざりしが故に、僻陬の地に在りては神職・僧侶又は醫師にして本業の傍之に從事するもの多く、農商の資産に富み稍餘暇ある者もまた父兄の依頼によりて開設せり。就學者の數は概ね寡く、特に農村に在りては三冬積雪の間のみその師の與ふる手本に就きて讀方を受け、併せて之を臨摹するに止り、それすら社會的地位の中流に住するものに非ざれば爲す所にあらざりき。但し城下その他の市街地に在りては大に趣を異にし、商工の子弟概ね平易なる讀・書・算を解し得るに至るまで寺子屋の教育を受け、士人の子弟も亦必ず就きて書道を修めたるが故に、入學者頗る多く、從ひて少年の教導を專業とし、或は之を世襲するものすらなきにあらざりき。 寺子屋に就學する兒童の年齡は八歳前後に初り、年長者は十六七歳に及ぶものあり。寺子屋の中には町家のみの子弟を收容するものあり、町家の子弟と武家の子弟とを共に教育するものあり。後者に在りては、多く午前に町人、午後に武家を集めて教授時間を區別せり。習字科に用ふる手本は、日常必要なる語句文章を集めたるものにして、書法を練習するに先だち讀方を授けたるが故に、手本は即ち讀本をも兼ぬるものとし、庶民にありてはその教科用とする名頭・町名盡・國盡・商賣往來・消息往來・庭訓往來を學ぶを以て普通の學力を備へたりと考へられ、千字文・實語教・童子教・三字經・小學題辭・唐詩選に至りては頗る高等に屬すとせり。武家の子弟は、明倫堂に四書・五經等の漢籍を學ぶの外、寺子屋に於いては歴代帝號・武家法度・武具短歌等を手本とせしを以て、これ亦習字以外多少の裨益ありしこと勿論なり。寺子屋にては毎年春秋二季に張清書を行ひて優劣を判じ、兒童の階級を進めしむ。張清書とは、各級毎に一樣の文字を選び、三日聞に亙りて練習し、第四日に至り嚴重なる監督のもとに清書せしめ、各記點して之を壁上に貼布するをいふ。この外席書と稱するものあり。多く寺院を會場に宛て、同窓新舊の門生相集り、席上直に大小隨意の文字を書し、兼て揮毫し置ける作品をも併せて陳列し、以て來賓の展觀に供せしなり。寺子屋にはまた通學兒童の外、稍年長の門生あり。彼等は時々その清書を齎して師の批評是正を求む。門閥家の子弟に對しては、師匠たるもの日を定めて參邸指南せり。凡そ書道を以て衣食するものは、繪畫・俳諧・點茶・挿花・卜筮・醫術を生業とするものと同じく、士農工商以外の特種階級とせらる。書家中特に技術の優秀なるものは、徴されて食祿を給ひ士籍に列せらるゝことあり。その職務は書寫方御用を命ぜらるゝを普通とす。書寫方とは藩の御書物奉行の配下に屬するものにして、珍籍奇書を謄寫するを職とするものなり。