藩政時代の大部分を通じたる教育機關の状況は略上述の如し。然るに嘉永六年米艦の來航するや、國内忽ち警を傳へ、西洋の兵法とその武器の運用とを研究するを焦眉の急としたりしかば、加賀藩に於いても藩士練武の爲に各種機關を經營し、後には語學・理化學の學校も陸續として設置せらるゝに至れり。 洋式武學校の最も早く建設せられたるものを壯猶館となす。初め藩士に大橋作之進といふものありて、夙に自邸に西洋炮術の研究所を置き、長大隅守の家臣河野久太郎・菊池大學の家臣加藤九八郎と共に飜譯書に就きて講究し、同時に醫師黒川良安に囑して原書を調査せしめしが、後江戸より松下謙作を聘してその術を傳習せり。是に於いて藩侯前田齊泰は、特に小川群五郎・小川權之助・小川兵左衞門に命じて、久太郎・九八郎と共に學ばしめ、嘉永六年金澤上柹木畠に在りし弓術練習場を廢し、その敷地を擴張して火術方役所の所管たらしめ、安政元年正月建築の工を起して、八月竣成するに及び之を壯猶館と號し、以て藩士の炮術を學び練兵に從事する所とせり。本校の教師にして初めて蘭學を講じたるを鹿田文平とし、安達幸之助之に次ぎしが、幸之助は後に英學に轉じたりき。尋いで三宅復一・岡田秀之助亦英學を以て生徒に授け、幕士秋山安房の家臣佐野鼎も聘せられて稽古方惣棟取となれり。鼎は蘭學の兵學者なり。藩吏にして本館の主宰たりしものには、安政元年に大橋作之進・前田主馬・岡田與一・横山内藏助・中村蔀、安政二年に成瀬主税・岡田條之佐・芝山平右衞門・堀半左衞門、安政三年に三浦八郎右衞門・小幡和平・武田喜左衞門・姊崎石之助等あり。