壯猶館の職員は、主付と稱するもの大抵五六人にして、奉行は約二十人とし、奉行の中には彈藥奉行・筒奉行・製造奉行・銃卒奉行・軍艦奉行等の名目を定む。その他横目五六人・記録方六人・入用方四人・留書四人・横目付留書五六人あり。本館に附設せられたる小立野彈藥所・牛坂村彈藥所・土清水村製造所・小柳村製造所・鈴見村鑄造所・七尾軍艦所・西町軍艦所に勤務するものは、その員數明瞭ならずといへども、約百名を下らざりしが如し。又壯猶館に於ける稽古方棟取は四五人とし、其の下に大炮方指引三十人・小銃方指引四十人あり。卒族を指引するものゝ數も亦之に同じ。指引とは尚指揮といふが如し。學術の擔任教師は鹿田文平・安達幸之助を飜譯方と稱し、其の他二三人あるに過ぎずして、役料知を受くることなく、七月・十二月の二次に賜金ありしのみ。その金額、奉行及び稽古方頭取は銀一貫目、指引は銀二百五十目にして、教師は詳ならず。 壯猶館に於ける炮術の練習には、士族と卒族と有祿なると無祿たるとを問はず凡べて出校したるを以て、生徒の員數は不定なりといへども、日々出席したるもの三百人を下ることなく、之に對する指引役概ね百四十人ありしといふ。洋學は安達幸之助が教員たりし時を以て最も隆盛とし、私費を以て寄宿するもの五六十人あるに至れり。然れども教員の數五六人に過ぎざりしより考ふるに、通學生は却りて僅少なりしなるべく、學費は束脩・謝儀共に之を要することなかりき。 かくて西洋式の炮術は、壯猶館の創設以來練習する所なりしが、慶應二年前田慶寧の封を嗣ぐに及び、兵制に大改革を加へ、主として新式銃炮を用ひ、同年六月與力及び歩士の子弟を以て大炮隊を編成し、翌月舊式の和銃を使用するを職とせし異風組を廢し、又從來壯猶館にて採用したるゲベル銃を止めて、英國製エンペル施條銃を用ひ、尋いで五十間の堋場を卯辰山・小立野・大豆田の各地に作りて、銃隊の士卒にその技を練習せしめ、城内にも亦堋場を新設し、侍臣に射撃の技を習はしめき。三年五月經武館の後方に馬埒を設けて馭術を修めしめ、十月大小將組・馬廻組・定番馬廻組・組外組(クミハツレ)の諸隊を廢して悉く銃隊と爲し、定番馬廻頭以下を罷めて銃隊馬廻頭・銃隊物頭・炮隊物頭等を置き、別に寄合馬廻組を置きて老幼二者を之に屬せしめ、又舊來の大組・中組・留守居・聞番等に屬する足輕を擧げて、割場奉行の統率する所となし、その奉行を中隊頭と稱せしむ。後更に大炮歩士頭を新設せり。此の時小銃は英國製のものを用ひたりといへども、練兵は尚蘭式なりしなり。